《ジェレム・ジェレム便りNo.66》ポーランド・ロマ 祖母と孫の対話「今まで誰も聞かなかった」(上)シモン・グオヴァツキー

インターネットの時代になりヨーロッパから発信されるロマに関するニュースに接することは容易になったが、そのテーマは差別や貧困、そしてそれらによって引き起こされる人権問題に関するものがほとんどで、彼らの生活の実態や市民感情についてリアルな情報を得ることは意外と難しい。そんな中、一編の興味深いインタビュー記事(英文)に遭遇した。この内容はぜひ日本の読者に伝えたいと思い、筆者のシモン・グオヴァツキーさん*にメールでコンタクトを試みたところ、数度のやりとりを経て、日本語訳掲載の許諾を得ることができた。ロシア軍の正義なき攻撃にさらされるウクライナ、そして隣国ポーランドには今も多くのロマが暮らしている。彼らの存在を胸に刻みながら、今回から2回に分けて掲載する。なお、この記事は今年の1月26日付で、翌日のホロコースト記念日に合わせて発信された(市橋雄二)

*)ロマ出身の慈善活動家。ポーランドの伝統的なロマの一家に生まれ、現在はロンドンを拠点に出自に基づく偏見や暴力をなくすための活動を行う慈善団体に所属して、地域社会や学校に向けたワークショップの運営責任者を務めている。

「今まで誰も聞かなかった」(上)シモン・グオヴァツキー

それは11月はじめのことだった。祖母に電話をかけ、昔のことが聞きたいのでポーランドに帰ると伝えた。ホロコースト記念日のことなどを説明したが、理解できないようだった。怪訝そうな声が返ってきた。

「ロマが体験したことに興味がある人なんているのかね?」

聞き方がよくなかったようだ。インタビューという言い方はやめよう。

「幌馬車に乗って暮らしていた頃のことを少し話したいんだ。おじいちゃんとはどうやって出会ったの?」

姿は見えないが、祖母が微笑んでいるのがわかった。主人のことを思い出したのだ。

「いくらくれるんだい?」祖母は笑った。

「こっちは無一文さ。」

「待ってるよ、坊や。」

ロマの人々は第二次世界大戦のことを語りたがらない。ほとんどタブーと言っていいほどだ。ホロコーストやサムダリペン(ロマの知識人が呼び習わす言い方)という言葉も多くの人は知らない。こうした言葉は非ロマの世界で使われるものだ。ロマがあの戦争に触れるときは「ヒトラーの時代には」とか「バロ・マリベン(大きな戦い)の時は」という言い方をするが、めったに話題にしない。

1933年から1945年の間、ヨーロッパのロマはナチスによる迫害のターゲットだった。ナチス政権はロマを反社会的とみなした。第二次世界大戦中、ナチ党員とその協力者は25万から200万人のヨーロッパ・ロマを殺害したと言われる。数字の開きが大きいのは戦争勃発前の正確なロマの人口が明らかになっていないからだ。ロマは強制収容所の中だけで殺されたのではない。幌馬車のキャンプでも、森の中でも殺された。コミュニティー全体、家族全体が抹殺された。目撃者のいないところで、静かに。そして、忘れ去られた。

2週間後、私は祖母の前に座っていた。いつものようにストロングで甘い紅茶を飲みながら。

「どうして昔のことなんかを話したいんだい?」

年老いたロマが話すことに一体誰が興味を持つのか、信じられない様子だった。

「私たちのことに興味を持つ人がいるのかね?」

私はとても簡単な質問から始めることにした。

「おばあちゃん、名前は?」

「サビナ・リビツカ」

「ロマの名前は?」

「インチョロ」

そう、ロマは社会生活上、非ロマの世界で使う正式名と自分たちが好んで使うロマ名の二つを持っている。

「年はいくつ?」

祖母は少し笑った。女性に年齢を尋ねるのが失礼だからではなく、ただ単に知らないからだ。

「年はとったけど何歳かはわからないよ。」

祖母は幌馬車のキャンプで生まれた。ポーランドのどこかの森の中の。戦争の前であることは間違いない。時期は収穫の頃だった。多くのロマと同じように、祖母も学校に通ったことがない。

「子どもは生活の中で一番よく育つのさ。覚えるまでに何度も失敗しないといけないがね。」

「昔のことを聞かせてくれない?何か覚えていることを。」

私はようやく祖母に聞いた。

(次回につづく)

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