2012年2月アーカイブ

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2月26日夜のNHKETV特集「花を奉る 石牟礼道子の世界」はひとりの人間の持続する想念がいかに世の中の不条理を撃つ力があるかを証明するような番組だった。水俣育ちの石牟礼道子が水俣病を文明の病として、半世紀にわたり書き続けてきた「苦海浄土」を頂点とする一連の作品群は現代文学の世界において、その深さ、普遍性、訴求性において圧倒的に屹立する存在である。
TVで特に胸にきたのは発せられる水俣の方言のたぐい稀な美しさだ。浄瑠璃を聞くときの陶酔感すら覚えたのだった。不知火の海の漁を食した人々はチッソ工場の垂れ流し続けてきた水銀に犯され水俣病を発症した。
その人々を訪ね歩いた詳細な聞き書きからは水俣病患者のほとばしるような情念が立ち上がり、それは水俣病患者の思いが石牟礼道子の肉体を通じて語られるかのような文体である。
ここから受ける感覚は、民俗学者宮本常一の聞き書き「忘れられた日本人」に収められている「土佐源氏」で味わった感銘にも通じるものがある。
水俣という土地で育まれた言葉で語られる方言や言い伝え・伝承のいかに神話的な色彩を帯びていることか。そうした神話的な世界に生きてきた水俣の人々の苦界を声高に告発するのではなく、人々のこころの奥深くのヒダに分け入り、鋭く優しくその思いをおのれの筆に乗せる。そこには取材者としての姿勢はなく、水俣病を患う人々の思いをすべて己の体内にためこみ、ついにはとうとうとあふれ出してくるかのような語り口であり、語り部なのだ。
当時,10代だった水俣病の患者は施設にはいり今は、50代半ば。風雪の残酷さが画面を覆う。彼を訪問し、「苦海浄土」に書きとめた亡き祖父の言葉を石牟礼道子が(孫である男に)読んで聞かせるシーンは美しく心を打つ。身内は逝き、言葉も発することができない車椅子の患者の表情が微妙に笑み、ゆがむ。石牟礼道子が「これを書くのに40年かかったよ」と男に語りかけるのだ。2人の間に流れる万感の思いが、痛いほど伝わってくるシーンだった。また、車椅子に乗る石牟礼道子を同じ施設の女性患者がやってきて「がんばって」と石牟礼道子を励ますのである。思いもしない励ましに泣くしかない石牟礼道子。 半世紀に及ぶ水俣の人々の「苦海浄土」がつむぎだした奇跡的な浄土か。
3・11大震災の世界についての石牟礼道子の詩。
花を奉る
(略)
現世はいよいよ地獄とや云わん
虚無とや云わん
ただ滅亡の世迫るを待つのみか
こゝに於いて
われらなお
地上にひらく一輪の花の力を念じて合掌す
2011年  大震災の翌月に
番組中で3・11の震災の体験の意味を「全感覚で生まれ直す体験をした」と。
さて、水俣には石牟礼道子という稀有な語り部が存在しているが、福島には存在するか。それは「放射能が降っています。静かな静かな夜です。」(『詩の礫』)と書いた詩人和合亮一なのだろうか。
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ボクシングについては意見が分かれることが少なくない。すなわち、それを力と技の発揮による一種のスポーツ芸術だとする見方と単なる残忍な見世物だとする見方である。どのような見方をするにせよ、ヨハン・トロルマンの人生は悲劇としか言いようがない。
トロルマンは1907年、北ドイツのハノーファーに生まれ、旧市街に住むスィンティ(広義のロマのうち中世後期から中欧に住む民族集団)の家の11人兄弟の一人として育てられた。8歳のときにリング上での才能を開花させ、ハノーファーのボクシングクラブに入って練習をするようになった10代のころには評判はますます上がっていった。スピード、軽快さと驚くべき破壊力が持ち味のトロルマンは、ロマの言葉で「木」を意味する<ルク>からとった<ルケリ>の名で知られるようになった。
アマチュア時代のルケリは無敵で、4度の地区大会と北ドイツ大会で優勝した。1928年、トロルマンはストックホルム・オリンピックのドイツ代表に選ばれるものと思われていたが、選考委員たちは「黄色人種でボクシングスタイルもドイツ式ではない」としてその参加を拒否した。これが人種差別に晒された最初の体験だったが、決してこれで終わりではなかった。
不屈の精神を持つトロルマンは2年後ベルリンでボクシング協会の承認を得てプロに転向する。するとその卓越した技でたちまち多くのファンを獲得した。その多くは女性だった。1932年には年間32試合を戦うものの、観客動員が増えるに従いファシスト政権寄りのメディアから「リングの上のジプシー」というレッテルを貼られるようになる。ユダヤ人がスポーツの世界から排除されるようになると、それまでユダヤ人ボクサーのエリック・ゼーリッヒが占めていたライトヘビー級チャンピオンの座が空席となった。悲しむべき状況ではあったが、こうしてトロルマンは1933年6月9日チャンピオンベルトを賭けてアドルフ・ヴィットと対戦した。
その試合は政治的に利用されていた。ヴィットは、「スィンティ出身の対戦相手を簡単に打ち負かすアーリア人」という役割を負っていたのだ。しかし、ルケリは簡単にはダウンしなかった。それどころか、ボクシング協会の会長の前でおこなわれた6ラウンドは、トロルマンが優勢だった。そのときだった。ヒトラーの党の一員が審判に判定を無効にするよう命じたのだ。ボクシングのことをわかっているファンによって埋め尽くされた観客席は大騒ぎとなり、協会は命令を退けトロルマンの勝利を宣言せざるを得なかった。
この劇的な勝利にトロルマンはリングの上で歓喜と悲しみの涙を流した。勝利を喜んだ一方でその年のはじめ重い病気で父親のウィリアムを亡くしていたのだ。
ヒトラーは熱心なボクシングファンだったことで知られている。支配人種が他のすべての人種、特にユダヤ人、ロマそしてスィンティの人々に優るという自らの理論を示そうとするときに、トロルマンの成功はこのドイツのリーダーを動揺させた。大方の予想通り、トロルマンの王座は長くは続かなかった。一週間後、ボクシング協会が「風変わりな動き」で「ボクシングらしくない」と主張したことが理由でチャンピオンベルトを剥奪されると告げられたのだ。
翌月、異彩を放つボクシングスタイルを変えるよう忠告され、ジプシーのように踊ることを禁じられたトロルマンは、髪をブロンドに染め、小麦粉で体を白く塗ってリングに上がった。そしてグスタフ・エダーの前に敗れた。それはトロルマンにとって最後のプロボクシングの試合となるだろうという覚悟で望んだナチ政権に対する勇気ある抵抗だった。
ナチ政権がさらに権勢をふるうようになるとスィンティの人々はユダヤ人と同じ扱いを受けるようになり、1938年には断種手術が強制収容所行きを免れる唯一の手段となった。命の危険を感じたトロルマンは断種手術を選び、スィンティの出身ではない妻と離婚することによって妻と娘を守った。
労働キャンプにいた1939年ドイツ国防軍に召集され、1942年人種を理由に除隊になるまで各国で従軍した。その年の夏、トロルマンは故郷のハノーファーで逮捕され、ハンブルクにあるノイエンガンメ強制収容所に送られた。
ここではすぐにナチ親衛隊のボクシングレフリーの目に留まり、一日の重労働のあとに兵士に対してトレーニングするよう命じられた。死んだことにして助けようという同志の企てが発覚すると、トロルマンは1943年ヴィッテンベルゲに移送された。ここでもボクサーとしての名声が災いをもたらすことになる。
今度は収容所の監督官エミル・コーネリアスと試合するよう命じられた。ナチスの下、長期間の残忍な扱いを受けていたにもかかわらずトロルマンが勝利した。ボクシング選手としてルケリの最後の舞台になるはずだったが、トロルマンは卑劣な復讐を企てたコーネリアスによって強制労働中に収監者たちの目の前で殺されてしまう。ヨハン<ルケリ>トロルマンは1944年3月9日、わずか36歳でこの世を去った。
弟のひとりヘンリーもその4ヶ月前にアウシュビッツで虐殺されている。悲しみに暮れた母親はその後1946年ハノーファーで亡くなった。やはり熱心なボクサーとなりヨハンから多くを学んだ弟のアルバート<ベニー>トロルマンは、ハノーファーで78歳まで生き、1991年病死した。
試合に勝ってから70年後、娘のリタとヨハンが大叔父にあたるマニュエル・トロルマンら遺族に対してチャンピオンベルトが贈られ、ライトヘビー級のドイツ人チャンピオンとして公式に記録されることになった。
2011年の夏、ハノーファーとベルリンにボクシングリングをモチーフにした仮設のモニュメントが建てられ、ノイエンガンメ収容所での収監者番号にちなんで<9841>と名付けられた。制作した芸術家二人によれば、リングを斜めに傾けたのは、偉大なボクサーが選手人生を通じて堂々と向き合った試合という戦いと晩年に被った差別そしてナチス時代の恐怖との戦いを表しているのだという。
(市橋雄二2012/2/12)
参考URL: http://www.johann-trollmann.de
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スティーグ・ラーソンの世界的ベストセラーを映画化したスウェーデン映画「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」(2009)を、「セブン」「ソーシャル・ネットワーク」のデビッド・フィンチャー監督がハリウッドリメイクしたミステリーサスペンス。
以前、スウェーデン映画ミレニアム3部作については触れており、それを見て欲しいが、このハリウッド版を注目するのはデビッド・フィンチャーが監督だからだ。きびきびとテンポ良く展開する流れは鮮やかで編集技術の冴えはさすがである。しかしながら, 多くの複雑な登場人物の関係性がわずらわしく、原作を読んでいないものには筋立てを追うのに苦労するのではないか。読んでいた私でも細部を思い出しながら、やっとの思いで筋立てを追えたほどである。
とはいえ、寒気が伝わってくるようなスウェーデンロケの効果は素晴らしく、短いカットの積み重ねによる映像は美しく、カメラワークではスウェーデン版を凌ぐかもしれない。
さらに、この原作が造型した異形のヒロイン、リスベット(ルーニー・マーラ)はスウェーデン版のリスベット役(ノオミ・ラパス)に劣らぬほど魅力的である。このあたりは好みの問題だろう。この映画はリスベットの人物造型で成否が決まるほど、リスベットの比重が大きい。その意味では、映画は成功である。
ラストの処理も続編を意識させるかのようなつくりだが、商業主義の権化、ハリウッドでは当たれば、作るという姿勢だろう。
リスベットの過去が作品全体の大きなテーマになっているので、この「ドラゴン・タトゥ^ー」だけでは、そこまで描かれないのでやや食い足りない感が残るのである。
スウェーデンのミステリー、警察小説といえば〈マルティン・ベック〉シリーズを連想する。マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー夫妻が1965年から1975年にかけて10作を発表した同シリーズは、スウェーデンの社会を背景にした警察小説として多くのファンを獲得している。その後。ヘニング・マンケルの〈ヴァランダー〉シリーズはその現代版と言えるだろう。そしてスティーグ・ラーソンのミレニアムである。
いずれも主人公は若干、世の荒波に翻弄され、少々疲れ気味の中年が主人公である。彼らが、スウェーデンの風土のなかで人生の哀歓を感じながら、しぶとく生きていく姿勢が読者の共感を呼んできた。ヨーロッパの匂いとも微妙に違う匂い、どこか乾いて、冷気を帯び、それでいて熱い内面、こうした北欧の香りがスウェーデン小説の魅力だ。
 昔、イングマル・ベルイマンの「処女の泉」「野いちご」などを見て、フェリーニなどのヨーロッパ映画人のテイストと違う透明感や土着性、神話性にひきつけられたが、このあたりがスウェーデンのミステリーの底辺に流れているものの古層にあるのかもしれない。

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