クルド民族問題とジプシー<ロマ>の存在から現実世界の冷厳な様相を垣間見る

■2007.10.31  クルド民族問題とジプシー<ロマ>の存在から現実世界の冷厳な様相を垣間見る
○このところトルコとクルド人との関係がきな臭い。イラク北部のクルド系武装組織「クルド労働者党」(PKK)とトルコ軍とのあいだで戦闘状態にあるようだ。PKKの解体を目指すトルコが、イラク北部への本格的な越境攻撃の可能性をちらつかせ、国境地帯の緊張が高まっている。トルコは米国やイラクにPKK掃討を迫る外交圧力を強める一方、国境付近への軍部隊増強とPKK拠点への攻撃を続けている。
国家を持たない最大の民族クルド人2~3千万人はトルコ、イラン、イラク、シリア、アルメニアなどにそれぞれ少数民族として分散している。イラクにもともと居住してきたクルド人たちは、イラク戦争でアメリカがフセインを倒したのを機会に、北部に自治区を樹立した。この地区の近くにはイラクで最大級のキルクーク油田もあり、各国にとっても重要な戦略的地域でもある。トルコ軍とPKKとの戦闘は中東地域と欧米,ロシアの思惑が複雑に絡み合い新たな火種になる危険性が強い。
一方、トルコ国内に少数民族として苦難の生活を強いられている1000万を越えるクルド民族がPKKに共鳴し、イラク国内のクルド人と同じようにトルコ政府にも自治を求める動きが急進化し、またトルコとPKKとの戦闘に参加するようになってきた。(これらについての状況・情報は日々変化している)
○私がクルド民族のことを意識するようになった契機は1980年初頭にトルコ在住のクルド人監督ユルマズ・ギュネイの映画「路」そして「群れ」を見たことだった。「路」は衝撃的だった。ストーリーはトルコ(1980年当時)の数人のクルド人政治犯が仮釈放で故郷に数日間帰省する様をオムニバス風に綴ったものだったが、それぞれのストーリーが限りなく重く、不条理に満ちており、独特の風習などの映像表現加わり鮮烈な印象だった。そこにはクルド民族の歴史、男女の生き方、世界観の違い、因習と伝統が織り成す人間模様が叙事詩のように繰り広げられていた。
この「路」は1982年のカンヌ映画祭でグランプリと国際批評家大賞同時受賞したのだが、ギュネイ自身が監獄から指揮したり、亡命先のフランスで編集をするなどの話題も重なりクルド問題の存在を日本人に認識させた意味でも意味ある作品だった。
例えば、一つの話。入獄中に不義を働いた妻は実家に戻され8ヶ月鎖につながれている。民族の掟で、家名を汚した妻を自ら殺さなければならない男。なお妻を愛する男は不条理な思いを背負いながらも彼女を極寒の雪山越えに連れ出すが、衰弱している妻は凍死してしまう。別の話。兄を亡くしゲリラになることを決意した弟には、心を寄せる美しい娘がいるが、クルドの慣習では兄が死に独身の弟がいる場合は、弟は兄嫁と結婚しなければならない。ゲリラとなりクルドの自由の為に戦おうとする弟はそうした因習を拒否できない。等々。
これらの不条理ながらも民族独自の伝統を強く意識せざるを得ない彼らの状況が痛いほど納得できた。国家を持つことを許されないクルド民族の存在理由・存在価値を追及してゆけば、必然的に民族固有で、苦難を経てきた先祖が保持してきた風習によりどころを求めてしまう不条理な世界に生きざるを得ないのだ。
そして、2007年のクルド民族も状況は変わっていない。ようやくできたイラク北部のクルド自治区もトルコ軍が越境してくれば、つかの間の安寧は破られるのである。
○クルドの民族求心性とジプシー(ロマ)の無定形な拡散性・・・・民族という存在は己の歴史伝統に誇りをもたなければ生きていけない。クルド民族も同様で、自分たちの国家を要求して戦いをやめることは当分ない。この感情はどうしようもなく強く、抑圧されればされるだけ、強固になっていくものだ。しかしながら冷厳な既成の国家秩序を保持することが何よりも優先する欧米露・イスラム国家などはクルド民族の自決への動きが自国に跳ね返るのを警戒する。国際政治の現実の壁は厚い。私はため息とともに彼らの心情に寄り添うしかできないのでである。
そんな袋小路に入ったように思われる地球上の諸課題に押しつぶされるような思いでいるとき、私の思いは一気にジプシー(ロマ)の人びとの生き方に向かうのである。各国に点在するように存在するジプシー(ロマ)の人々はせいぜい集落を形成する程度で、それ以上の共同体・組織ましてや国家などを樹立しようなどとは思わない。行く先々で複雑な蔑視を含んだ視線を受けながら、イスラム教徒にもキリスト教徒にもなり、土地伝来のうた・踊りに順応しながらも、それらを変容させていくしたたかさ。ノーテンキとも思える自由さ、束縛嫌い(賃金労働を嫌悪!)、独自の清濁感、歴史への無関心、文字を持たないそして何よりも表現世界に発揮する天分など・・。
彼らは少なくとも戦争やジェノサイドには加担してこなかった稀有の存在である。これらの罪から逃れられる国家・民族のどれだけ少ないことよ。
地球上の国家群は様々な地に定着して、そこに文明を発達させてきたのだが、その営々と積み重ねてきた文明の功罪、その行き着いた現在の何と問題多きことよ。我われは己の価値観を一度投げ捨て、まっさらな気分ですべてを問い直す必要があるのではないか。

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