人間の業を引受ける潔さ:映画「サラエボの花」から

■2007.11.09  人間の業を引受ける潔さ:映画「サラエボの花」から
○ボスニア・ヘルツェゴヴィナの映画「サラエボの花」は一見の映画である。1992年、旧ユーゴスラヴィアが解体していくなかで勃発したボスニア内戦は、死者20万人、難民など200万人の多大の犠牲の上に1995年に一応の決着をみた。この近年の最悪の紛争はバルカン半島の複雑に絡み合った民族と宗教が背景にあり、我々にはなかなか理解しにくい地域である。ちなみにボスニア・ヘルツェゴヴィナを構成する民族はムスリム人(イスラム教徒44%)セルビア人(セルビア正教徒31%)クロアチア人(カトリック教徒17%)。1992年に旧ユーゴからの独立を問う住民投票を契機に3民族の利害が対立して紛争が勃発した。
昨年夏に旧ユーゴの一つマケドニアでジプシー<ロマ>の集落、シュト・オリザリに滞在した。そこで私はまだこの紛争が現実に日常生活に影響を及ぼしていることを経験した。ボスニア内戦が収まってからもセルビアのコソボ地区からロマの難民がシュト・オリザリにも流入して様々な問題を起こしている。旧ユーゴ地域の状況を知るためにもこの映画は見たかったものである。
舞台はボスニアのサラエボの一地区グルバヴィッツァッであり、ここは戦争中はセルビア人勢力に制圧されていた地域である。映画のテーマはこの時期に起こった深刻な事実が12年経過した現在でも人びとの生活のヒダまでも影響していることを描いている。シングル・マザーのエスマとその娘サラが軸になりそれらを取り巻く人びと、こどもたちにも視点は及ぶ。未だ貧困から抜けだせない市民が必死に職を求め、生きる日常生活を丁寧に描きながらも、それらの表情は深く重い影を湛えている。俳優陣が実にいい。演技を越えた自然さがあり、それだけに説得力を増す。当時の苛酷な体験を一切描かずに、現在の日常生活を描きながら、過去の深刻な事実を想起させていく手法は見事なものだ。通常は、フラッシュ・バックなどで挿入するのだが、一切そうした気のきいたテクニックは使わず、さりげない伏線をちりばめてある。ボスニアの町の冬の寒々しい光景が身に沁みるほどだ。カメラマンの力量もただならぬものである。
また各シーンで重要な役割を担う音楽の使い方も効果的であり、画面にふくよかさを醸成する。
ラスト近くにはエスマが体験した苛酷な事実とこの母娘の背負った宿命が一挙に明らかになり、その重さにたじろぐ思いだが、この監督の視野は広く、深いのだ。人間の業を引受ける潔さがまぶしい。監督が女性だから生み出せた映画だろう。ヤスミラ・ジュバニッチ監督、33歳、長編第一作。2006年ベルリン映画祭金熊賞他多数の映画賞を受けたが、末恐ろしい才能の出現だ。12月1日から岩波ホールで公開。

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