迫力に満ちたルポルタージュ・・・「漂流するトルコ」:小島剛一

トルコに関する濃密な情報がぎっしり詰まったトルコ東部辺境のフィールドワーク紀行であるとともに心豊かなトルコの少数民族の人びとの苛酷な人生が語られ、それに寄り添う日本人言語学者との交流の記録でもある。
著者は並外れたスケールの持ち主の、在仏が長い日本人言語学者である。小島剛一という名をはじめて知った浅学を恥じるのみである。1970年以来、トルコにのめりこむように、一貫してトルコの言語事情、民族問題とりわけ少数民族の言語研究にまい進してきた学者であるが、その過激なまでの行動力と情熱は学者の枠を遥かに超えている。ゴムぞうり履きでヒマラヤのトレッキングで6000メートル近辺まで登る体力の持ち主でもある。
フランスに長年住むうちに身に付けたねばり強さ、たとえ強大な国家を敵に廻しても真実を伝えることを諦めない芯の強さで外交部、内務諜報機関などトルコの権力機構とわたりあう。保守的な旧弊から抜けていないトルコの言語学に絶望しながらも論戦を挑むことを止めない。
  いっぽうで苛酷な歴史を生きてきた弱小の少数民族のひとびとには限りない優しさと共感をよせ、少数民族言語の辞典を編纂し、ラズの民謡を採譜する。ラズ人の民謡集が完成すれば、トルコ東部を巡りながら、一冊一冊村人へ自ら届ける律儀な人間味の持ち主でもある。
この本で特に参考になったこと。一つはクルド民族問題の本質がはじめて明らかになったこと。(少なくとも私にとって)かつてクルド人監督ユルマズ・ギュネイの「路」「群れ」などを見て、衝撃を受けた以来、意識的にクルド問題には関心をもってきたが、この本での言語学的な分析によりクルディスタン運動の将来まで見通せてしまうのである.。
 そして白眉は、相当な数になる少数民族の言語研究にまつわる話、事件のおもしろさである。東部の辺境の村々を訪ねて歩きながら、村人たちと交わす会話がとても生き生きとしていておもしろい。トルコ語のみならずいくつかの少数民族の言葉まで自由に駆使する日本人に出会う村人たちの驚愕の様子から、自分たちが味わってきた困難辛苦を語れることに涙する村人たちの境遇の苛酷さまで、一気に読ませる。
 トルコ政府の建前は「少数民族は存在しない。存在するのはトルコ人だけ。よって民族問題は存在しない。」ということ。こうしたトルコ政府の硬直した姿勢から生まれる少数民族への抑圧政策を著者はあらゆる機会を捉えて果敢に弾劾し続ける。
 己の思想的根拠の座標軸を「それぞれの民族は自由に己の言葉に誇りをもちながら話せる」ということに価値におくことで、そこから外れるものには、国家であれ、権威であれ、政治家であれ批判を止めない姿勢なのだ。こうしたことは日本人には理解しがたい事情だが、地球上には「民族と言語」の問題はその民族の存続をかけてまで、闘争するほど重大な問題なのだ。多民族国家は多い。
 著者が言語調査から導いた現状分析をトルコの役人たちに繰り返し説明する場面は、いかにこうした官僚機構に勤める人々を改心させることが困難かを実感させる。
専門性の高い少数民族の言語調査という行動が、いつしか少数民族の村の人々との長く、熱い交流になっていくドキュメントでもある。
 
 そしてトルコの諜報機関をはじめとする暗い組織との、手に汗にぎる心理戦が、サスペンス小説の様相をも帯びてくる。学者が陥りがちな言語研究の自己目的化に陥らずに、視座が常に少数民族の心に寄り添っているのが好ましい。
 
 ラスト。2度目の強制出国処分・国外追放でイスタンブール空港で出国を見張る少数民族出身の警察官との出会いから、彼らの著者にたいする呼び方が「お前」から「閣下」と変化する様子が感動的である。
 言語、民族、トルコに関心がない人でも一読すれば、止められなくなるような面白さに満ちた著である。