現代スペイン社会の実相を、広い視座で浮かび上がらせた秀作だ。主人公ウスバルは末期の前立腺がんで余命2ヶ月の中年男。精神のバランスを失った妻とは別居中であり、2人の子供もある。不法滞在のアフリカ人や中国人労働者の手配師をやりながら、一方で死者の声を聞くシャーマンみたいなこともしつつ苦しい生活のなかで、懸命に生きている。
この映画を見ながら、余命2ヶ月という主人公の設定から、すぐ連想したのは黒沢明の「生きる」だった。市役所の1課長が死期を悟り、決意したのは戦後間もないころまだ少なかった児童公園を建設することで、そこから官僚社会の壁にぶち当たりながら、目的を達成するまでを、死後の通夜からの回想という絶妙の作劇術で映像化したものである。
一方、ウスバルは残していく子供たちへの愛情、病む妻への愛憎、そして不法滞在する中国人労働者たちやアフリカからの不法移民セネガル人たちとの接触を通じて呼び起こされる波打つ感情などに身もだえしながら、余命を懸命に生きる。。
ここにはスペインのバルセロナに生きる等身大の庶民の実相と、近年ヨーロッパ社会を覆う移民問題が重層的に絡み合い、解決を見つけがたい重いテーマが横たわっている。
移民による民族の多様性が生み出す社会的緊張感はヨーロッパ各国が共通に抱える苦悩だ。。
ガウディ・ピカソ・ダリのイメージがある華やかなバルセロナでも、一歩裏通りへ入れば貧困と闇社会が広がっている。そして中国人労働者が地球上に膨張する存在感に驚くのである。。
監督イニャリトゥはある種、距離間を保ちながらも、控えめな共感をたたえつつ人間像の造型に成功した。登場する人物は皆、憎めない善良さを内に秘めながらも多様な個性を秘めた人間として際立っており、絶望にまみれた現実のなかでの救いとなっている。法に触れるような危ない仕事をする人々にもそれなりの真実があるという、下手をすると安手の人生模様になりがちだが、人物描写には破綻がなく、視座が広い。。
ウスバルが絶望して、踊り子バーのようなところで酩酊するシーンは、そのまま「生きる」の志村喬が踊り子たちに嬌声をあげるあのシーンに直結する。あとで監督イニャリトゥは19歳のときに「生きる」を見ていたことを知るが、一種の黒沢へのオマージュかもしれない。。
アフリカ人、中国人問題までも視座に納めながらも、この映画の根本はウスバル本人の分厚い人物造型が見事な成功を収めていることだろう。人間的な弱さを抱えながら、最後には己の父親像への憧憬を獲得し、父性そのものを子供に伝えるというささやかながら、人生の要諦を貫徹したウスバルへの賛歌になっている。。
ウスバルを映じるバビエル・バルデルは今、世界で一番輝いている俳優だ。俳優の栄光について考える。。
蛇足。主人公が持っているシャーマン的資質、日本のイタコのような霊の呼び戻しの能力がウスバルにはあるようだが、若干説明不足か。。