ナジフは一家を鉄くず拾いで養い、妻、セナダとの間には二人の女の子がいる。ある日、セナダが腹が痛いと苦しみだし、病院に行く。診断は、流産して、5ヶ月の胎児はすでに死んでおり、手術しなければ危険だと言われる。が、保険証がないため、980マルク(500ユーロ)もの高額な手術代を請求され、泣く泣く諦めて戻るしかなかった。ナジフは治療費を稼ぐため、鉄くず拾いの精を出し、懸命に働く。
物語は大きな起伏がある訳でもなく、あるロマの集落の日常を描いた一コマのスケッチだ。この映画の成立のきっかけは、この事実を地元の新聞で知った監督のダニス・タノヴィッチが義憤に駆られて、村の二人を訪ねたことから始まった。当時のことをナジフとセナダに再現してもらい、村人たちも本人が出演し、手術を拒んだ医者などは友人に依頼したという。そして1万3000ユーロの資金で、わずか9日間で撮りあげたと言う。
再現ドラマで素人の本人たちが演じているので、演技以前の生身の人間の表情が不思議な感覚を呼び起こす。感情の爆発もなく、むしろ淡々と物事が進み、カメラの視線も冷静である。ことさらにロマ集落の貧困や荒涼とした風景に焦点を当てることなく、あくまで二人の夫婦に寄り添う。日常性に存在する生の重みや安らぎ、家族の実感などが画面に漂う。
監督は二人がロマであることからの差別という視点はとらずに、むしろこの夫婦と子供たちに好感以上の感情が湧いて撮らざるを得なかったというスタンスが好ましい。特にナジフとセナダの素の表情には人間の性善説を信じたくなるような品性が垣間見えて清々しい。
観ているうちにナジフの冷静な態度や演技を超えた柔和なまなざしに、彼の人柄に好感を抱いていき、セナダのたまに見せる恥じらいを含んだ笑みにほっとさせられる。
ロマの主たる生業である鉄くず拾いを丹念に記録していることや、助け合う縁者間の絆の強さをさりげなく描いたショットに監督の視線の低さを感じるのである。
もともとロマに関する知識や関心はなかったと、インタビューで答えている監督はユーゴスラビア解体にいたる激烈な民族間の憎悪などを体験しているはずで、今なお存在する多くの民族間の差別構造は体感しており、そうした体験がこの映画を生む潜在的な動機になったことは間違いないと思われる。