迫りくる漂泊遊行の魂:小沢昭一:写真集 昭和の肖像〈芸〉

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    昨年末に発刊された小沢昭一の写真集「 昭和の肖像〈町〉」に続いて2月6日から「 昭和の肖像〈芸〉」が刊行された。これで2巻そろっての「昭和の肖像」の簡潔ということになる。
    今回の「芸」篇には「昭和の芸人たちー路上の商い、寄席、芝居、見せ物、ストリップ、句友、そして消えゆく放浪芸・・・」の実に多様で、複雑で、懐かしい姿、表情が納められており、昭和という時代に生きた彼らの息吹や、呼吸や、体臭までもが間近に聞こえ、匂ってくる。
    思い起こせば、彼らの芸能的な出自は日本列島の中世にまで遡れ、祖先が漂泊遊行の旅を続けながら、各地に残した芸能の血脈を受け継ぐ昭和の芸能民なのである。
    小沢昭一さんは俳優としての生き方を突き詰めるという、極めて個人的な欲求から彼ら、漂泊芸能の人々に接し、芸能民の中に芸の必然性とも言うべき規範をつかみ取った。それは差別される側に生まれ育ったものが、生きるために仕方なしに歯を食いしばって身につけたお金に換える芸能というものだった。
    ここに納められた写真の数々は、小沢さんが昭和40年代に各地を行脚しながら撮られたものが中心である。どれもこれもが私には懐かしく、思い出に溢れるものだが、冷静に思い起こせば、これらの殆どは今や消滅の境にあるものが多いのだ。
    芸能は時代の要請により、変貌を繰り返すものではあるが、今のテレビ、マスコミなどに現れる芸能的表現にはこの本にある芸能民の持つ時代を撃つような力強さがない。芸能とは、時には時の権力にとり不都合であったり、邪魔なものであり、それだけに庶民の願望や怒りを代弁する存在である。たまには行儀不作法であり、猥雑であるが、人間の本質を鋭く突いた表現も生まれる。
    そうした意味において、ここに納められた芸人は、いずれもお金に換える芸能の腕前を小沢昭一に認められた人々であり、貧しさの中から力強く己の人生を貫いた人々なのである。
    写真集「昭和の肖像〈町〉、〈芸〉」の2冊の内容は重い。視点の斬新さ、予定調和ではないものの見方、見逃されてきたものへの熱い思い、少数者と弱者への視野、正当性、常識への疑い、主流ではなく傍流、中心より周縁・・・。小沢さんの写真を見ているとこのような言葉が思い浮かぶが、小沢さんはこうしたことをことさら大きな声で言い立てたりはしない人だった。そうしたことを恥じるような姿勢があった。俳優として非常に多くの著書を残したが、大きな声でメッセージを述べることはなかった。ただ彼の残してきた仕事をみれば、その思いの総量に粛然と頭を垂れるしかないのである。
    たまたまこの本の巻末解説を依頼され、私なりの思いを書いたが、小沢昭一という存在を的確に伝えられたかというと心もとない。小沢さんの多面的で、重層的な有り様は一筋縄ではいかない。
    筑摩書房刊。