他のどのような実力派監督が撮っても、決して入り込めないアルゲリッチの心のひだにするっと入り込んだ、貴重な証言の数々が興味深い。我が子であるからこそ心を許して思いを吐露するアルゲリッチとカメラを通して母親と会話するステファニーとのやりとりが新鮮で胸を打つ。アルゲリッチの顔のクローズアップを多用するのも娘なりの特権かもしれない。
アルゲリッチのCDではラフマニノフの三番のコンチェルトが好きで、繰り返し聞いていたが、内面からほとばしり出る、押さえようもない感情の爆発がラフマニノフの体質に合うような気がしたものである。そして彼女を単なるクラシック音楽家以上の存在にしているのが彼女自身の持つ並外れたオーラ、自由奔放(に見られる)な言動などだが、、今回のドキュメンタリーが興味深いのはそうしたアルゲリッチの実像が或る程度解明されているからだろう。
演奏会の開演間際に必ず見せる再三の、心の動揺、悪態などは、彼女も普通の人だと思わせ、子供のような振る舞いが、ステファニーをして自分が母親で、アルゲリッチが子供だと言わしめる。
そしてこの映画の根本は、父母(親)と子供たちとの関係という永遠のテーマに対する強烈なネッセージ性にある。
アルゲリッチには3人の娘がおり、すべて父親が異なり、長女のリダは中国人指揮者ロバート・チェン、次女アニーはフランス人指揮者シャルル・デュトワ、本編の監督、三女のステファニーはアメリカ人ピアニストのコヴァセヴィッチがそれぞれの父親である。国籍もそれぞれで、
世の中の常識、慣習、倫理などにとらわれずに自分の価値観で生きてきた、その自由自在さがまぶしいほど革新的だ。
一つの文化にのみ寄り添うのではなく多様な文化を知り、その価値観を認めることが、結局ナショナルなものを真に尊ぶことに通じることをアルゲリッチと三人の娘たちの関係性は証明している。
マルタ・アルゲリッチはアルゼンチンの出身であり、彼女の母親の系譜にはユダヤ系ウクライナの血も混じるようで、推測だがインディオ、スペインなどの血も入っているのかと思うほど、彼女の紡ぎだす音楽の色彩が多彩で、強烈な訴求力に富んでいるのだ。
長女リダとは生後直ぐ離れざるを得ない事情が起こり、ステファニーがリダに会うのは17年後だったり、母親との葛藤があったりと、波乱の多い人生は豊かさと苦悩に満ちたものだったろう。これらの体験がすべて彼女のピアノに込められていると思えば、彼女の突出した表現力、特にデモーニッシュなまでのテンポの揺れ、不動のテクニックなどがアルゲリッチの血と涙の産物なのだと納得する。
美しく心を揺さぶるシーンが多い。ステファニーと実父コヴァセヴィッチとの数日間の生活ぶり、アルゲリッチとコヴァセヴィッチのツーショットなどには余韻が漂い、滋味深い。そして3人の娘たちと、芝に座りながらの何気ない会話のシーンには安らぎが満ちていた。
孫に子守唄を奏でる安らぎのシーンがラストに用意されている。