「イスラーム国の衝撃」(池内 恵著)〜明快で、示唆に富む分析

  • 「イスラーム国」という現象に現在、最も肉薄した書と言えるだろう。それほどタイムリーでありながら、問題の核心を抽出した論点の明晰さは驚くほどの精妙さに溢れている。急遽、出版されたにもかかわらず、著者の学問的な蓄積の豊かさが全編に溢れ、説得力に富み、論点にゆるみや粗雑さが見られない。
    イスラーム国の衝撃」は著者が長年取り組んできた2つの専門分野、
    ①イスラーム政治思想史、特にジハード論の展開
     
    ②中東の比較政治学と国際関係論、
    これら2つの研究の手法・視点を併用して、まさに両者の相互関連性を体現している「イスラーム国」の実像に迫った書である。著者は「二つの研究分野が一つに融合していく稀な瞬間を目撃することになった。」と感慨を記している。
    著者の書を初めて読んだのは大学院生時代の処女作「現代アラブの社会思想」(講談社現代新書2002年、大佛次郎論壇賞)だったが、学術書からイスラム社会のヒットソング、大衆が読む雑誌類までを渉猟した研究方法に従来に無い新鮮さを感じたのだった。イスラム社会の大衆の心のひだに密着した内容だった。
    さて、著者は20世紀初頭から現在までの1世紀を以下のように幾つかの分水嶺として提示する。
    ①1919年第一次世界大戦後の中東秩序の形成

    大戦中の1916年に英・仏にロシアも加わった秘密の「サイクス=ピコ協定」による一直線の国境設定など。「イスラーム国」はこの協定の結果の中東秩序打倒を掲げている。
    ②1952年 ナセルのクーデタと民族主義

    エジプトのナセル中佐によるクーデタによりアラブ世界に民族主義と反植民地主義の流れが伝播したが、成立した共和制諸国は独裁・長期政権化し、腐敗していった。シリア、リビア、エジプト、イエメンなどである。2011年の「アラブの春」でチュニジア、エジプト、リビア、イエメンで政権が退場。
    ③1979年イラン革命とイスラーム主義

    2月にイランで、イスラーム革命により王制が打倒される。79年ソ連がアフガニスタンに侵攻。ビン・ラーディンら義勇兵参加。この時期は近現代のジハード主義の最初の昂揚期。
    1981年エジプト、サダト大統領がジハード団に暗殺される。そこに連座したアイマン・アル=ザワーヒリは出獄後アフガニスタンに渡り、ビン・ラーディンと同盟してアル=カーイダを結成した。「イスラーム国」はこの流れを汲む。アル=カーイダが果たせなかった領域支配を、イラクとシリアの周辺地域で確立しかけている。
    ④1991年 湾岸戦争と米国覇権

    米主導の多国籍軍が、イラクをクウェートから排除。米国一極支配による覇権秩序の定着が進む。
    ⑤2001年9・11事件と対テロ戦争

    ブッシュ政権はアル=カーイダに活動の場を与えていたアフガニスタンのターリバーン政権の打倒に続き、2003年にはグローバルジハード運動と直接関係のないイラクのフセイン政権の打倒に踏み切る。フセイン政権の崩壊後、再生したアル=カーイダは、2006年「イラク・イスラーム国」を名乗るようになり、イラクでの反米・反政府ジハードは「異教徒」や「不義の支配者」と闘う、という従来のジハード論に加えて、シーア派を背教者として断じてジハードの対象とする、宗派主義の要素を持ち込んだ。
    ⑥2011年「アラブの春」とイスラーム国の伸張

    各国政権の崩壊は「イスラーム国」の構想に威信と信憑性を帯びさせ、活動の場を開いた。
    ⑦2014年「イスラーム国」の伸張

    新たな分水嶺。
    これにより、複雑な中東の近現代史の流れの中で「イスラーム国」の出現の歴史的意味合いがよく理解できるようになった。楽観的でもなく悲観的でもなく中東の現在を見つめていく手がかりになるだろう。
    「アッラーの道のための」という目的にかなった戦闘をジハードと捉え、それへの参加がイスラーム教徒一般に課された義務であるとするのは、イスラーム法学上の揺るぎない定説だという。近代のイスラーム諸国は、このジハードの義務の概念を、国家による統制下に置こうとしたが、自分たちが植民地支配や従属的な立場に置かれていると判断するものは統制を無視する。
    イラクとシリアに現れた「イスラーム国」という集団のジハード論、メディア戦略などの分析も鋭い指摘に満ちている。その主要な宣伝媒体雑誌『ダービク』で展開される彼等独自の論理はイスラーム啓典や教典から導きだされるが、現代の国際社会の規範を大きく逸脱する内容に付いて世界のイスラーム法学者の反応を著者は問いかけている。
    そして現在、行われている殺戮を「イスラーム国」が「正当化」する法学解釈の根拠や論理展開に正面から反論する学者が出てこなければ、過激思想を正当なものと見なす次世代が育ちかねないと危惧している。そしてイスラーム世界にも人間主義的な観点から宗教テキストを批判的に検討し、諸宗教間の平等や宗教規範を相対化する姿勢を取り入れたイスラム教の宗教改革が求められる時だとしている。
    今後、イスラーム法学者がどのような方向を導きだすのか注目したいし、著者がその周辺情報をもたらしてくれることを期待する。
    新書版でありながら、含まれている内容は重い。(文春文庫)
    追記:「イスラーム国」による人質問題がマスコミで連日取り上げられ、夥しい報道がなされた。2月1日の「週刊BS-TBS」(夜9:00ー10:54)には池内恵氏が出演して、様々な分析を述べたが、今までなされた多くの報道の枠を超える明晰さに満ちたものだった。