映画「娘よ」を観て〜新しいパキスタンを描く映画人の挑戦

  •  まず、本作「娘よ」の原題DUKHTARについて少し説明を加えておきたい。DUKHTARとは「娘」を意味するペルシア語起源のウルドゥー語(パキスタンの国語であり、インドの公用語の一つでもある)で、カタカナで発音を示すと「ドゥフタル」に近い。ここでの「フ」は喉の奥をこすって出す音で日本語にはない発音。余談ながら、綴りからも想像がつく通り印欧語族の仲間である英語のdaughterと祖語が共通する。現代の英語では「ドーター」のようにghの部分を発音しないが、フランス語の影響を受ける前の古英語の時代には上記の「フ」と同様に発音されていたと言われている。その意味でローカル言語のタイトルながらユーラシア大陸のスケールを感じさせるタイトルでもある。
     さて、本作はパキスタン出身でアメリカ在住の女性監督アフィア・ナサニエルによる長編デビュー作で、山岳地帯の大自然を背景に、部族社会に今なお残る幼児婚の因習から娘を助けようとする母と娘の逃避行を描いた作品で、エンタテインメントの要素を入れながらも基本的にはアート映画の範疇に入るインディペンデント作品である。
    政情不安定の中パキスタン辺境地域でのロケには苦労があったというが、監督は映画制作のセオリーに則って堅実に作品をまとめている。アメリカのコロンビア大学大学院で映画学を学び、現在も同校でシナリオライティングの教鞭をとっているという経歴を知ってなるほどと思う。雪化粧の高山をバックに色あざやかなデコレーション・トラックを走らせるカットやステディーカムを用いたサスペンスタッチの追跡シーンなどインターナショナルの観客へのアピールも忘れない。インディペンデント映画の制作が始まってまだ日が浅いパキスタン映画界においての試みとしては大いに評価されてしかるべき作品で、そのことは2015年のアカデミー賞外国語映画部門のパキスタン代表作に選ばれたことからもわかる。
     パキスタンの娯楽映画は制作拠点がラホールという都市にあることから、インドでいうボリウッド(ボンベイとハリウッドを組み合わせて「インドのハリウッド」を意味する造語。なおボンベイは現在ムンバイとその名前を変更している)をもじって〈ロリウッド映画〉とも呼ばれるが、近年の動きとしては2005年ごろからそれまでのイスラム化政策(本サイトの2016.10月掲載のジェレム・ジェレム便り「映画『ソング・オブ・ラホール』が問いかけるもの」でも一部触れている)のなかで停滞させられていたエンタテインメント産業が復活し、映画界においてもイスラム過激思想や印パ国境紛争などのタブーに触れる新作が作られるようになってきている。本作もまたそのような文脈に位置付けることのできる実験的な作品だ。特にインドの娯楽映画にお決まりのストーリーとは直接関係なく挿入される「歌って踊る」シーンを排した作りをしている点は監督のこだわりであろう。制作資金調達において不利であることは間違いなく、本作も最終的にパキスタン以外にアメリカとノルウェーのファンドからの資金によって制作が実現したとある。
     本作についてはそうした挑戦する姿勢に対して好感を抱く一方で、ストーリーの舞台となっている地域に住むパシュトゥーン人の描き方に深みがないことが気になった。喩えて言えば、東北の農村を舞台にした映画で全員がさらさらと東京弁で話しているような違和感とでも言おうか。もう少し人物や背景の考証に細やかさがあればさらに骨太な作品になったのではないかと思う。
     パキスタンでは先述の通り映画産業に対する規制が緩和され、パンジャーブなど一部の州に限られるもののシネコンの数も増えているという。今後も若い才能によって新しいパキスタン映画が作られていくはずであるし、シナリオライティングや撮影編集技術などさまざまな面で進化していくだろう。
    かつてインド映画には巨匠サタジット・レイ監督をはじめとするリアリズム映画の伝統があった。筆者などはそのディテールにこだわった映像や雲の動きに登場人物の感情を重ねるような比喩的な映像表現に感銘を受けたものである。パキスタンも広い意味でインド世界の一部である。同国の若い映画人にも同様の伝統が引き継がれていくことを期待したい。
    (市橋雄二/2017.5.7)