2020年11月2日、東欧セルビア出身のロマの作家、活動家ライコ・ジュリッチ(Rajko Djuric)氏が73歳で病気のため亡くなった。日本で報じられることはないが、母国をはじめヨーロッパのメディアは先週一斉に追悼記事を掲載した。
ジュリッチ氏は1947年旧ユーゴスラビア、セルビア社会主義共和国の小村マロオラシェに生まれた。幼少の頃から非凡な才能を発揮し、名門ベオグラード大学に進学。哲学と物理化学を学び、在学中から日刊紙ポリティカに記事を書いていたという。学生時代にロマのアイデンティティーを意識するようになり、80年代に国際的なロマ連帯の活動に関わるようになった。1981年国際ロマ連盟(International Romani Union)の事務局長に、1990年には代表に就任した。その間の1986年「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国におけるロマの文化」と題する論文で博士号を取得。1990年、兵役を拒否してドイツに亡命。この時ギュンター・グラスら知識人が支援した。90年代は国際ペンクラブのロマニセンターの事務局長を務め、ベルリン自由大学でロマの文化を教えるなどした。2004年故国ベオグラードへの帰還を果たすとタンユグ通信の副編集長に迎えられた。その後「セルビアロマ連合党」を率い、2007年には国会議員に当選した。文筆活動ではロマニ語による詩集のほか「ロマの歴史」、「ロマ文学の歴史」、「ロマ・ホロコーストの歴史」「ロマニ語の文法」「ロマニ語の動詞、その起源と意味」(以上いずれもセルビア語)や写真集Gypsies of the World(共著/日本語版「世界のジプシー」)などの著作を残した。
メディアは、ヨーロッパのさまざまな国に住むロマがそれぞれ伝承してきた独自文化の魅力を一貫して訴える一方で貧困の問題に言及することも忘れなかった、とジュリッチ氏の功績を讃えているが、実際にロマ、非ロマの同時代人に与えた影響にも触れておかなければならない。2006年、本サイト主宰の市川捷護氏と共にマケドニア(現北マケドニア共和国)の首都スコピエにあるロマ居住区シュト・オリザリを訪ねた際、インタビューを試みたロマの劇団員が芝居の題材の一つとしてあげたのがジュリッチ氏の著作だった。そして、今回氏がエミール・クストリッツァ監督の代表作「ジプシーのとき」(1989年/日本公開は1991年)誕生の影の立役者だったということを知った。手元にある日本公開時の映画パンフレットに、「(クストリッツァ監督は)子供たちを集めてはイタリアで売っていたユーゴスラビアのジプシーの新聞記事を読んでジプシーの映画の製作を思い立った」とあるが、この新聞記事がまさにジュリッチ氏の手によるものだった。クストリッツァ監督は記事を書いたジュリッチ氏の話を聞いて映画の構想を練り、台本執筆の際もロマニ語の監修を依頼したという。この世界初のロマニ語による映画から受けた衝撃は今も忘れることができない。