「人びとのなかの冷戦世界」〜益田 肇

1991年にソビエト連邦が消滅して冷戦は終わりを告げたように見えるが、一体、冷戦とはいかなるものだったのか。大国間同士の駆け引きや政治的リーダーを巡る物語は多く語られてきたが、従来の政治的・外交的な冷戦論に新たな視座を展開する刺激的な著作が出た。それだけではなく、これからの世界の見方にまで新鮮な示唆を与えるものかもしれない。
1950年の朝鮮戦争当時。世界各地、特に米国、中国、日本や英国、台湾やフィリピンなど世界各地で相次いだ「社会的粛清」の研究を通して「人びとのなかの冷戦世界」は冷戦言説がいかに第2次世界大戦後の社会変動や文化戦争を効率的に封じ込めたかを明らかにしている。
冷戦とは世界各地の社会内部のさまざまな異論や不和を封じ込めて、「秩序」を生み出すための社会装置だったのではないか、そしてそれは政治指導者によってというよりも、むしろ普通の人びとによって創り出された想像上の「現実」だったのではないかというのが著者の立場だ。
従来の政治史、外交史、文化史、社会史などといった従来の学問領域間の壁を乗り越えて、それぞれの地域で起きたことの同時性と類似性、関連性の意味を考察することにより、1945年以降の世界を再訪し、一見もっともらしく首尾一貫したかのように見える冷戦世界の枠組みを社会的な見地から見直す。
そのためには世界のローカルヒストリーを深く掘り下げ、普通の人々の囁き、噂、心情を丹念に拾い集める作業から得られた知見を、ワシントンや北京の朝鮮戦争政策の分析と融合させることによって、国内政治、外交政策、社会と国家、そして市井の人々と政治指導者の間で起こった相互作用について詳細に論じている。
その資料収集の幅は、世界各地のローカル新聞・雑誌の論説から、一般読者の投稿・投書まで及び、当時の普通の人びとの内面世界の分析を通して、世界のさまざまな有り様との関連性が浮かび上がってくる。こうした想像を絶する労力と時間を費やされ集積された基礎的資料をもとにした研究手法は説得力があり、新鮮な驚きがある。
特に面白かったのは、朝鮮戦争当時の38度線をめぐってのアメリと中国との間の駆け引きが当時のさまざまな資料によって明らかにされる部分だろう。さまざまな政治的決断は冷戦思考や地政学的考察から生まれたのではなく、国内政治情勢や大衆感情に関する指導者たちの判断が重要な位置を占めていたということが分かる。
著者はシンガポール国立大歴史学部准教授。朝日新聞(1月26日)によれば、現在、アジア各地の人びとの声を収集するオーラルヒストリー・アーカイブ設立を目指したプロジェクトを推進している。そうすることでアジアにおける冷戦と脱植民地化の歴史を見直そうとしている。
第75回毎日出版文化賞、第21回大佛次郎論壇賞受賞。岩波書店刊

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