衝撃の家族像〜「緑衣の女」:アーナデュル・インドリダソン

  • 注目のアイスランドのミステリ作家アーナデュル・インドリダソン のエーレンデュル・シリーズの邦訳第2作である。邦訳第1作の「湿地」は昨年夏に刊行され、瞬く間に様々なミステリの人気ランクの上位を獲得したのも記憶に新しい。極北アイスランドの自然の中で苛酷な背景を背負いながら生きてきた人間模様を哀切感と切迫感溢れる北欧ミステリに仕立て上げる筆力はただものではない。
    住宅建設地で発見された、人間の肋骨の一部を巡って殺人事件の匂いを嗅ぎ付けた警察官エーレンデュルを中心に三人の捜査官が、骨になった人物を特定すべく捜査が始まる。首府レイキャヴィクの郊外にサマーハウスが建ち始めた地区は大戦中はイギリス軍やアメリカ軍のバラックが建っていたという。そして地道な近隣への聞き込みにより数十年間、封印されてきた暗黒の謎が現れてくる。
    物語は三つの方向から語られる。一つは骨の主の正体を追うエーレンデュルたち三名の捜査陣。二つは娘の危機を契機に明かされていくエーレンデュルの過去。そして三つ目はある家族のドメスティック・バイオレンスである。
    北欧ミステリの魅力は主人公の警察官像の造形の妙にある。エリートではない、家庭や己の中に問題を抱えながら仕事をする、叩き上げの不器用な人間が多いのだ。等身大の人間が苦闘しながら、犯罪の闇に迫り、押し返される。決して才能豊かに鮮やかに難問を解決して読者の溜飲を下げるというヒーローではなく、泥臭く、地をはうような捜査を積み重ねていく普通の人間である。
    捜査官エーレンデュルは妻と離婚し、二人の子供とも久しく会っていない。そして長女は麻薬などを常用しており、妊娠中らしいのに極道たちの世界に沈殿しているようだ。ある日、 妊娠中の 長女から「助けて。お願い」という電話が入り、父エーレンデュルは懸命に探し出すが、娘は死産で重篤な状態で寝たきりになってしまう。意識を失った長女の回復に望みを託す手段で、時間を見つけては集中治療室の娘に物語などを語りかけながら、捜査活動を続ける。寒々しい妻との別離、長女の父への激しい反発や侮蔑など、苛酷な私生活の環境で黙々と捜査を続けていくエーレンデュルが捜査する人々も同じように宿命的な闇を抱えた人々なのである。
    そして様々な証言により、現場付近のスグリの木の茂みのあった一家の数十年前の苛酷な歴史が明かされていく。暴力を振う夫と、耐える妻、ただ見守るしかない子供たちの魂の受ける傷・・人間の奥深く巣食う闇の深さに言葉を失う。
    特に重い障害を持つ長女のミッケリーナの描写は生命力を徐々に取り戻す過程が救いのない状況下で希望を感じさせる巧みな筆運びとともに心に残る。全編通じてほとんど話をしないミッケリーナだが、その存在感は強烈で、ラスト近くになり覚醒したミッケリーナの容姿と発する言葉は感動的だ。
    結末は半ば予想通りだが、この物語の骨子は単なる犯人探しではなく、むしろ犯行を裁かずに、エーレンデュルとミッケリーナの二つの家族の哀切な物語を描きながらアイスランドの、北欧の、そして地球上の家族が抱える巨大な闇を提示することにあるのではないかと思われるのである。
    インドリダソンは訳者柳沢由美子氏のインタビュウーでこう答えている。
    「私は殺人事件が起きる背景に焦点を当てたい。なぜその人が殺されたのか。日常的な風景、平和な暮らしの営みとそこに生きる人間を描き、その中で殺人事件が起きることの意味を考えたいのです。殺すに至るまでの過程を理解したいのです。殺すにはそれ相当の理由があり、殺された人間のほうが犯人よりも悪人であることもあり得る。自分の作品では犯人逮捕で終わったのはいまのところ一作しかありません。」
    CWAゴールドダガー賞(英国推理作家協会賞)/ガラスの鍵賞(北欧ミステリ大賞)、同時受賞。訳者、柳沢由美子はヘニング・マンケルの著作の訳者でもあり、明快な文章である。
    東京創元社刊。