噴出する情動〜映画「ジプシー・フラメンコ」

  • ドキュメンタリー映画「ジプシー・フラメンコ」は不世出のフラメンコ・ダンサーカルメン・アマジャ(1913〜1963)の生誕100年を記念して制作され、彼女の実姪(メルセデス・アマジャ・ラ・ウィニー)と娘(カリメ・アマジャ)が芸の真髄を継承する様を追った記録である。
    2013山形ドキュメンタリー映画祭にも参加したが、純粋にドキュメンタリーとしての水準からすれば、やや物足りない部分ーー例えば少年がフラメンコを目指すシーンなどは作為的な描写が目につくし、また彼女たちのリハーサルシーンはアップが多すぎて、全体のイメージが伝わらないなどーーがあるが、そんなことは問題にしないほど二人のフラメンコダンスは圧倒的な迫真力・真実味に満ちている。
    ドキュメンタリーフィルムを見る醍醐味は素材の説得性にかかってくる。幾多の不具合があろうとも観客をねじ伏せてしまう素材(彼女たちのダンス)の迫力だ。
    カリメ・アマジャのダンスに舌を巻いているうちに、母親のメルセデス・アマジャ・ラ・ウィニーが現れるとそのただならぬ存在感に圧倒される。踊りに入る前の表情や裂帛の気合いが空気を切り裂く。
    二人の違いは技術的なものではなく、その芸風がもつ違いであり、あるいは母が身につけざるを得なかった見世物性・通俗性の極地が垣間見えるところだ。娘カリメ・アマジャはひたすら己の精神に従い、踊り、母メルセデス・アマジャ・ラ・ウィニーは、それに加えて観客との間合いへの視野があるというべきか。または母のダンスには古代的な匂い、呪術性があるというべきか。
    本ブログで田中泯のダンスについて私は以下のように記した。
    「身体の根源的な動きを探りつつ、肉体の内発的な衝動に従い、呼吸の営みや研ぎ澄まされた全身感覚が瞬間、瞬間に毛穴から噴出する情動に身を委ねるかのように田中泯はダンスする。」
    フラメンコも同じだ。これに加える言葉は全くない。
    身体の奥底に蓄積されてきたジプシーの記憶の総量、感情の爆発が堰を切ったように溢れ出し、身体はおのずから反応し、ダンスする。
    エヴァ・ヴィラ監督作品。2012年 スペイン製作。