映画『ラサへの歩き方』を観て

  •  本作は、今のチベットを舞台に実際の村びとたちの五体投地による巡礼の旅を描いたロードムービーで、チベットを扱いながら政治や宗教の匂いを消し去って生身の人間と自然の描写に特化したとても美しい映画である。
     中国第6世代の監督チャン・ヤン(張楊)による新作で、プロフィールによると根っからのチベット好きらしい。チベットに陸路で入るには、道路整備の進んだ青海省からまっすぐ南下するルートや四川省からほぼ真西に進むルートが一般的であるが、チャン監督はこの映画のロケハンのために、雲南省の大理から北上し、シャングリラ(香格里拉)、デチェン(徳欽)を経由して四川省に入り、パタン(巴瑭)から西に峻険な山岳地帯を超えてマルカム(芒康)に入るという雲蔵公路(雲南チベット道路)を選んでいる。割とマニアックな行き方である。映画はそのマルカムという町から始まるのだが、このあたりに監督のチベットへのこだわりが感じられる。
     実は、巡礼の一団が通った雲蔵公路のニンティ(林芝)からラサ(拉薩)に至るルートは、ちょうど20年前、筆者もこの地域に暮らす少数民族メンパ族の民間芸能のビデオ撮影の際に通ったルートで、当時目にした風景を思い出しながら巡礼の旅を共にたどることができた。当時はなかった幅の広い舗装道路や送電線など時間が経過したことを感じさせる一方で、圧倒的な自然の景観は変わることはない。また、この地域はチベットから大きく湾曲してインドに流れ込む大河ヤルツァンポ(インド領内ではブラマプトラ川)の流域で、冒険作家角幡唯介氏のノンフィクション『空白の五マイル』の舞台に近いエリアでもある。
     映画では行く手を阻む増水、落石、交通事故などさまざまな困難に直面するシーンが描かれる。一団にはテント運搬用のトラクターが同行していて「ここはトラクターに乗ってもいいんじゃないの」などと心の中でつぶやいていると、村びとたちはどんな場合でも、迷うことなくただひたすら五体投地を続けるのである。思わず自分が恥ずかしくなる。彼らの巡礼の旅は、目的地に急いで行くこと、すなわち効率的であることに意味はない。五体投地というもっとも敬虔な気持ちを表す礼拝方法、すなわちもっとも非効率な方法で、楽をせずに仏様のもとに参じることが目的なのだということを改めて映像から思い知らされる。
     この映画はあまねく現代人に対するメッセージたりえることは言うまでもないが、もう一つ、今の中国人が置かれている状況の反映としての見方もできる。映画の冒頭、制作会社のロゴが始まる前に中国の監督官庁(国家新聞出版広電総局)が発行した認定書が映し出されることからわかる通り、敏感な問題をはらむチベットを舞台にしている映画でありながら、これは政府公認の映画である。監督も中国国内での公開を望んでいるという。このような現象は、冒頭にも書いた通り、政治的な、あるいは宗教的な関心とはまったく別の文脈で、「心の拠り所としてのチベット」という意識が国民(人口の約9割を漢民族が占める)の間に芽生えていることの証左と捉えることもできるだろう。急激な経済成長の中で住居や家電製品、高級食品など物質的に豊かな生活を手に入れ、極端なことを言えば、お金で買えるものは全て買ってしまった富裕層の人々の関心のひとつが、実は自分の国内にあった理想郷としての辺境地域なのである。ラストシーン、カイラスに吸い込まれていくような一団の超ロングショットの幻想的な構図は、そうした人々の心のうちを写しているようでもある。
    (市橋雄二/2016.7.30)