「秀吉と利休」野上弥生子著〜屹立する利休像

  • 1962年(昭和37年)〜63年9月の『中央公論』に」連載。1964年中央公論社刊。
    関白太政大臣豊臣秀吉と、その茶道の指南役、茶頭として仕えながらも、秀吉の政治顧問的な存在でもあった千利休という二人の緊張に満ちた人間関係を中心に当時の京都、堺などに生きた大名、茶人、能役者などとりわけ古渓、石田三成、秀吉の弟、秀長、などなど実在の人物から架空の人物まで登場させ、縦横無尽に桃山時代の空気そして日本人の心性を描写し尽くした歴史小説である。
    秀吉と利休の虚々実々の心理的な緊迫度は読むものの胸を締め付けるような切迫感があり、ついには利休の切腹という悲劇的結末を迎えるのである。描かれた時代は天正16年(  1588)晩春から19年2月まで、利休晩年の3年間に焦点を絞り、作者の歴史観、哲学、美意識の全てを投入した野上文学の頂上に位置する傑作である。
    利休は1522年に堺の魚問屋の長男として出生。少年時代から茶道に精進し、16歳でひとかどの茶人となり、やがて宗易と号し、また利休の居士号を得る。信長が堺を制圧すると、利休は信長の茶頭になり、本能寺で信長が横死した後、天下を掌握した秀吉の茶頭として仕えた。
    二人の間柄は、君臣であると同時に師弟であったが、秀吉の利休に対する信任と傾倒は篤く、政治の分野までも、秀吉の相談に乗り、奉仕した。それが、天正19年2月28日、秀吉の命によって利休は自刃し、一条戻橋のたもとで獄門にかけられる。
     たまに見るNHKの大河ドラマ「真田丸」に秀吉と利休が出ていたが、秀吉の描き方は少なくとも野上の描いた秀吉像が出発点だったと分かるのだ。それほど秀吉の人となりは感情の起伏の激しさ、生まれに対する負い目とひがみ、利休に対する憧れと反発など、野上の秀吉像の影響度の大きさを実感する。
    利休の心理面に対する洞察と推理はその深さ、幅の大きさにおいて驚きの認識力を示し、茶道とその周辺の描写は一点の狂いも見せず、すべての叙述が利休の人物像の内面に深く届く美的感性に満ちている。
    加えるに、庭の四季に応じたみずみずしい木々の描写、山々の姿、小鳥の声、物売りの声、堺の街に流れる商人たちの体臭までが細密画のように、周到に全編に散りばめられる。
    『‥・・宇野千代も円地文子も瀬戸内寂聴も、この人の慎ましさにはまったく頭が上がらなかった。上がらなかっただけでなく、慎ましいにもかかわらず、その教養の深さと広さと速さの相手をつとめる者なんて、もう誰もいなかった。たとえば能や謡曲については、白州正子ですらお孫さんのような者だった。・・・』(『松岡正剛の千夜千冊』)
    古今、幾多の学者たちが、利休研究の最大のテーマの死因にかなり迫りながらも、学問としての史料探索の限界などから生じる、真相を覆う深い霧を払拭できない歯がゆさを、この小説は虚構ゆえに生み出す強靭な説得力と明晰な知性で歴史的真実に限りなく近づき得たのではないか。それほど、この小説を読んでいる最中は、利休は実在し、秀吉も実在していたのである。
    新潮文庫版の解説者の水尾比呂志がこの小説について作者に直に話を聞いたところ、最も苦心したことは、当時の生活風俗の具体的な細部の描写だったという。確かに膨大で周到な資料調査がなされ、さらに虚実皮膜の撒餌が散りばめられて、初めて成立した歴史小説であり、日本文学が到達した至高の峰であろう。