20世紀の初頭と中盤にアマゾンに入った二人の白人学者の民族誌や手記に触発され、映画化したのがコロンビアのシーロ・ゲーラ監督。88回のアカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされたようだ。
先住民カラマカテを訪ねてきたのは病に犯されたドイツ人民族学者。幻の聖花ヤクルナを求めて二人はアマゾン深くカヌーを漕ぐ。数十年後、記憶を失っているカラマカテはアメリカ人植物学者と出会い、再びアマゾンを彷徨う。様々な体験に遭遇しながら、時空を超えて、二人の間を行き交う対話がスリリングだ。ストーリーはわかりにくく、丁寧には展開しないが、アマゾンの自然に圧倒されながら、先住民のまばゆい世界観をただ聞き入るばかりである。
モノクローム撮影が効果的でアマゾンを漕ぐカヌーが美しく、ジャングル・森の表情が多様、多彩に変貌する様子に魅入ってしまう。
二人の白人学者とカラマカテとのふれあい、つまり、近代文明の合理性の真っ只中にいる白人とアマゾンの精霊との対話と民族の記憶に生きるインディオとの対話を通して、先住民の感性の鋭敏さ、視座の低さがより説得力を持ってくる。先住民の精霊との付き合い方、未来への予測の明確さが浮き上がってくるのだ。近代文明の成果である科学力に対するアニミズム=精霊信仰の素朴で力強い生への信仰がこの作品の通奏低音で奏される。
監督が現地、地元で見い出した二人のカラマカテ役の素人俳優の存在感が並外れている。崇高で、野性的、そして何より品性がある。この起用がなければこの映画の成功はなかったろう。俳優としての訓練などよりも、民族の伝統として、口承伝承(文字ではなく、言い伝え)で生きててきた彼らは優れた聞き手なのだ。饒舌な俳優ではないのだ。饒舌は何も語り得ないということを、 カラマカテが体現している。
モノクロ画面の一方の主役はアマゾンそのものの自然だろう。怒涛のように流れる豊穣な水量がのたうつ様は人間の犯す全ての罪を飲み込み、浄化してくれるかのような圧倒的な包容力に満ちている。豊穣な森・ジャングルには無数の精霊が行き交っている
監督が言っているように、安易な西洋文明や植民地主義への批判ではなく、失われたものへの痛切な喪失感を抱きながらも、アマゾン的なものと近代との架け橋を希求したという言葉を信じたい。こういう映画を見ると、何かとんでもない見落としたものが地球上にはあるのではないかと思えてくる。あまりに一方的な歴史が描かれすぎてきたような気がする。