真情溢れる恋愛小説〜又吉直樹「劇場」

  • 日本芸能史をふりかえれば、その時代の花形芸能に才能が集結してくるというのは様々な事例が証明している。浪花節全盛時代には広沢虎造、天津羽衣などの人気が他を圧倒し、歌謡曲が主流になると美空ひばりを筆頭に多くの才能が開花した。お笑い、漫才がテレビの主流を締める現在はユニークな才能を持つ若者がここに集まってくる。
    又吉直樹の才能もこうした文脈で捉えると興味深く、その作品の底流に流れるのは芸能者としての表現行為への突き詰めた思いであろう。デビュー作の「火花」には漫才師として葛藤する姿がビビッドに描かれ、安定感ある文体と透徹した自己洞察力には、作家としての将来性を期待させるものがあった。
    「劇場」はさらに文体に硬質性・抒情性・静謐性を増し、全体に抑制が程よく効き、熟練度が上がったと思われる。主人公は演劇を志す若者で、複雑に屈折した心情に己も悩まされつつ、演劇には正面から立ち向かっている青年である。
    彼が目指す演劇とは、「・・・感情が様式をなぎ倒すような強靭なものを作りい。・・」「・・人間の根本的なものと向き合うものを書いてみよう。幾日か洗髪していない人間の頭皮の生々しい匂いや、かさぶたを剥がし血がにじんだ時の痛みを書こう。」
    というような方向性を持ちながら、創作する動機としては
    「表現者の自己救済だけではなく 、その根幹に遊戯として楽しもうとする大衆性が備わっていることが」理想だと思っているらしい。
    全編を通じて永田という男が己の才能に悩みつつ、周囲の演劇仲間たちとの間に交わされるそねみ・妬みから生じる感情的摩擦などを超えて演劇への真摯さを保持し続ける日常を丁寧に表現している。題材からすると、「火花」以前にある程度、書き進められていたもののようだ。
    とはいえこの小説は明快に恋愛小説であり、永田の少々いじけた風な心にヘキヘキしながらもなぜか引き込まれてしまうのは、永田の恋人である沙希の存在と二人の間に交わされる会話の絶妙な面白さに負うところが大きい。これは又吉の独壇場で、お笑い芸人として習熟し、獲得してきた才能という宝である。
    これらの魅力的な会話・対話から、沙希という女性の姿・声・匂いまで具体的に立ち上がり、実在感に溢れる女性・沙希が眼前に現れる。不器用で、屈折した永田にとっては救いを求めるマリアみたいなものだろう。
    印象的なシーンは多いが、例えば、散歩が趣味みたいな永田が商店街を何がなく歩いている時、酔っ払い中年男女にあった際、向こうから「夕焼けを背負った自転車を押す母親と、そのそばを歩く赤いほほが印象的な少年がやってきた。」この少年が空手の型をくりかえしながら、前に進むと酔っ払い中年男女も「お兄ちゃん、かっこいいね」道を譲りながら、声をかけた。この時、永田の目に入った、母親の恥ずかしそうな表情、夕暮れの光、複雑に交差する電線の隙間からのぞく空、かすかに聴こえる電車の音・・・これらの完成された風景を見て、永田はこんな風景を作りたいと思うシーンの描写は胸を打つ。日常的な風景が突然、とても貴重な存在として、突然再認識される美しい文章だ。
    そして永田(又吉)がこの世に価値あるものとする真情が好ましく、信頼感が湧くシーンでもあった。
    全体の流れは永田が演劇のあり方や、表現することへの尽きぬ思いや才能を持つものへ抱いてしまう妬みの感情に悩む己への嫌悪感など、繰り返し屈折した永田の感情の彷徨が語られるのであり、そうした意味では芸能者として誰もが持つに違いない鬱屈した感情が痛々しいほどである。さらに己の才能に対する絶え間ない問いかけが息苦しいほどだが、これらのすべての感情を一気に浄化してくれる存在が沙希という女性なのであろう。永田の沙希に対する気持ちだけは確固・不動なものとして信じられるものであるという点で純粋な恋愛小説として十分な成功を収めたといえよう。また、何気ない日常風景への描写が滋味深い洞察に満ちており、作品の奥行きを深くしている。