映画「ガンジスに還る」の向こうに見るバナーラスの今

  •  ある日、不思議な夢を見て自らの死期を悟った父親が、聖地バナーラス(バラナシ)に行って死んで解脱をしたいと言い出したことから、その旅路に同伴することになった50がらみの息子ラジーブ。職場では営業ノルマに追われ、家庭では年頃の一人娘の結婚話が進んでいて、それどころではないのだが、とにかく年老いた親を一人で行かせるわけにはいかない。最初は乗り気ではなかったラジーブは、ガンジス河岸の宿(バナーラスには死を待つ人が滞在する独特の宿泊所があり河沿いの細い路地に軒を連ねている。
    本作のヒンディー語の原題”Mukti Bhavan(ムクティ・バヴァン)”は直訳すると「解脱の館」となり、このような宿のことを指す。)で世話をするうちに次第に父親に寄り添うことの意味を感じ始める…。息子の心の変化が平凡な日常の会話や無言の表情のなかに巧みに描かれるところが出色であり、鑑賞後に長く余韻の残る映画である。
    大河ガンジスを擁する町バナーラスは、その大河の水につかれば(あるいは口をゆすげば)罪を浄め、その町で死ねば解脱できると信じられていて、生老病死を繰り返す輪廻からの解脱を究極の理想とするヒンドゥー教徒にとっての一大聖地である。ややもすると宗教色の濃い映画になってしまいがちだが、本作のブティアニ監督は弱冠27歳ながら、小津作品に影響を受けたともいう映画的センスで本作を普遍的な人間のドラマに仕上げている。
    監督はインド人ではあるがアメリカで映画を学び、本作を制作するに当たっても入念な現地調査をおこなったと語っている。そのような観察者の視点でバナーラスの町が捉えられていることも映画に入っていきやすい要因だろう。特にガンジス河沿いのガートと呼ばれる沐浴場の様子や神への献身を歌う敬虔な信徒の姿などバナーラスの空気をよく伝えている。
    筆者も30数年前になるが、学生時代の貧乏旅行でバナーラスを訪れている。地元の大学生と知り合いになり、数日間学生寮に泊めてもらった。ガンジスにボート浮かべて拝んだ日の出、オールナイトコンサートで見たシタール奏者ラヴィ・シャンカル(ジョージ・ハリソンとの交流をはじめ世界を舞台に活躍したシャンカル氏は当地バナーラスの出身)のライブのことなどが思い出されるが、何と言っても薪のやぐらに炎が燃え盛る火葬場の情景が強烈な印象として残っている。その時味わったのは異文化としてのインド的世界にほだされたとでもいうべき体験だったかも知れない。
    あらゆるものを飲み込んで流れ続ける大河ガンジスは宇宙にも似て大きなエネルギーを持つ存在である。そして人はそこに吸い寄せられるように還っていく。本作の主人公と同じような年代になった今、映画を通して見たバナーラスは少しだけ違って見えた。
    (2018.11.13/市橋雄二)