「新復興論」〜小松理虔著(ゲンロン社刊)〜福島の現実を超える突破力!

  • 2011・3・11の東日本大震災は日本歴史上だけではなく、世界史的・地球規模的にみても、未曾有の災害であった。地震による揺れと津波、そして原子力施設の爆破破壊という自然災害と人災が複雑に入り組んだ複合的で巨大な災害だった。その影響は今だに東北各地の人々、避難を余儀無くされた地方自治体、そこに生活の根拠を持って生きて来た人々の基盤を一挙に剥奪するという冷酷な不条理が支配しているのだ。

    夥しい新聞・テレビなどのマスコミ報道がなされ、7年が経過した現在では一気に静まり返ったかのように沈静化している。

    ここに取り上げた「新復興論」は福島県のいわきに在住して来た39歳の青年、小松理虔が現地で這いずり回りながら、被災地の復興にかける熱い思いを、己れの頭脳と体験から絞り出し、吐き出した血の出るようなルポであり、報告書であり、提言であり、論文集である。
    彼の信条である多面的な価値観を含みながら、福島内部だけでなく、福島以外の外部の視点の導入、専門家だけでなく面白半分によってくる野次馬までもを内包化して共同作業していく強靭な咀嚼力が全編を通底している。

    そしてこの著にしなやかな膨らみをもたらしているのが、内外の文化芸術的な企画立案から携わり、その文化芸術的が生み出す思想の力を自分の中に取り込み、そうすることによって日常的に向き合っている現実のリアリティの強い引力の呪縛から一旦離れ死者の声や外部の声に耳を傾け、そこから復興を考える、という態度・視点だ。著者は学者でも評論家でもなく、現地取材の執筆をしながらイベントの運営・地域情報誌の編集・かまぼこ会社にも務め、医療福祉政策の発信もする福島の現場で生きる市井人だ。

    多彩を極める提案に対して、どれにも自分の内なる声に真摯に反応して、えらい先生方などの手垢のついた思考・表現を取らない平明で己れの頭脳が吐き出す言葉で反応・表現する。全て福島いわきの現場から拾い上げた言葉で、物を言うところが新鮮だ。凡百の復興論学術書を超える確かさが凝縮された復興百科エンサイクロペディアでもあろう。

    従来の固定観念に固まった我々にハッとさせる言葉が散りばめられている。

    ●「・・なぜ福島の海の魚の放射線量は年々下がっているのだろうか。片方は簡単だ。汚染された魚が寿命で死んで代替わりしたか、生き残った魚も、体内から放射能物質の排除が進んだからだ・・・」

    ●「本書で書かれることは一言で言ってしまえば《地方の絶望》と呼ぶべきものだ。しかし本当に絶望と受けとめては、ここで生きる価値がなくなってしまう。絶望の土地に生まれ育ち、しかし私はその地元を愛している。その愛と憎の両方を抱えつつ、そのいずれからも少しずつ距離を置き、それ自体を楽しんでしまう。そんな【観光客】の視線こそ、複雑な土地に生きる上での希望だと思う。」

    ●「常磐とは何か。それは常陸と磐城を合わせた地域を表す言葉である。」

    ●作家の古川日出男を常磐に案内した時。「・・・双葉郡は当然見るべきものが多いのだが、あまりにも現実の磁場が強く、想像というものを許してくれない。・・・・本書がここまで意識的にツァーを盛り込んできたのも、観光がもたらす想像力こそ福島の復興に欠かせないものだと考えたからだ。」

    ●古川日出男が「アーティストは真実を伝えるのではなく、真実を翻訳するのだ」という言葉は著者の胸に刻まれた。

    現在の日本が抱えている様々な諸課題に対して様々な提言がなされているが、多くは机上からの空論に溢れているのが現実である。

    しかしながら、本著は災害の現場からの遊離した論文集ではなく、福島いわきで実践者として獲得してきた知見・信念が平明ながら個性的な言葉で語られており、この福島の混沌をくぐり抜けてきた言語表現こそが磁場の強い現実を突破する力として普遍性を持つのではないかという希望を抱かせるのである。

    開沼 博の「フクシマ論 原子力村はなぜ生まれたのか」「はじめての福島学」とともに後世に引き継ぐべき収穫だ。

    第18回 大佛次郎論壇賞受賞作品(朝日新聞社)