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概説

このホームページはインド、アルメニア、マケドニア、トルコそして日本列島の各地域を巡ってきた私が「非定住・漂泊・放浪と芸能」そしてジプシー(ロマ)の出自と拡散についての仮説も交えたフィールド・ノートである。
ジプシーといわれる人々は地球上に広く拡散している。音楽、舞踊などを中心に人類の文化に豊かな貢献をしてきた彼らの感性・価値感・習俗は独自性にとんでおり、自由で、束縛を忌避する彼らの生き方は、未来への方向感覚を見失いかけている私たちに深い示唆、暗示を与えてくれるものである。ここでは、主に彼らの生業としての音楽・舞踊などの芸能に視点を定め、私が現地で撮影・録音してきたスチール・映像・音などの記録を公開しながら、非定住の民と芸能の関係や彼らの心性について私見を述べる。くわえて、このような問題意識にたどりついた契機となった、日本の放浪芸・・・日本列島を遍歴してきた漂泊・放浪の民のことにも追々ふれていく。尚、上記の地域、とりわけ海外の取材に関するフィールド・ワークは市橋雄二氏が同行しており、以下の内容は両者の共同作業の結果である。このHPの音楽の楽曲的な記述は市橋氏が担当する。


ジプシーという言葉について

最近は一般マスコミをはじめとして、ジプシーという表記をあまり見なくなった。大体ロマという表記にしているようだ。ロマの意味を知らないものは、見たり、読んだりした内容の本質部分を理解できない場合もあるのではないか。これはジプシーという言葉にある種の差別的匂いを感じる人々が、善意からか、正義感からか、人権上の理念からかは分からないが、ロマという語に言い換えてきたからだろう。こうした立場をとる人々にはもちろんジプシー(ロマ)の人々も含まれる。私は基本的には言葉の置き換えは問題の本質を曖昧にしがちであると思う。同様の問題は、他の少数民族の呼称(ラップ人はサーミ、エスキモーはイヌイット、ブッシュマンはサン族などなど)から落語に出てくる職業名や表現(床屋、按摩、貧乏長屋、「らくだ」の中の乞食などなど)にいたるまで及んでいる。私はある種の言葉を発する際に、大切なことはその言葉がどうような立場から発せられたかが重要だと考えている。よって、このノートの表記は基本的にはジプシーという言葉で進めていく。もちろん例外はあるので、そこは柔軟に考えていただければありがたい。実際、自分をジプシーと呼んでくれと誇らしくいう人々がいることも忘れてはならない。



  北インドの漂泊・門付けの遊芸民

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2001年8月。北インド、ラージャスターン州のタール沙漠で偶然出合ったジョーギーとよばれる民は蛇つかい、うた、踊りなどの門付け芸を生計とする沙漠の漂泊民で、ジプシーの原像を強く思い起こさせ、ジプシーの祖先のひとつと強く思わせる非定住のグループだ。
彼らのうた・踊り・仮テント小屋での生活を紹介。さらにカルベリアというグループの女たちの舞踊。また、パキスタンとの国境に近いジャイサルメールや周辺の村で出会ったマンガニヤールという芸能民の超絶的な技巧。人形つかい、様々な楽器演奏そして絵解きをする芸人ボーパなど。

1.ジョーギー:放浪・漂泊の遊芸民のコミュニティー。蛇つかい、うた・踊りの門付け、占い、火葬、乞食(中には、宗教的な行としての乞食も存在)などに携わる。定住せずに、数ヶ月単位でタール沙漠などを移動する。現在のヨーロッパなどに拡散しているジプシーの祖先のひとつのグループである可能性強い。女たちのうた。踊り。蛇つかいの笛(ビーン)。
2.マンガニヤール:イスラム教徒ながら、インド独立までヒンドゥの王家・宮廷をパトロンとしてきた楽士の呼称。独立後も観光客や祭り・結婚式そして門付けなどをしてしぶとく生き残っている。近年はその音楽的才能の豊かさからミュージシャンとしても台頭してきている。
3.絵解き芸人・ボーパ:絵巻物を指し示しながら、物語を語り、うたう門付け・大道芸で、本来の形はラージプート(騎士・武士)の英雄の生涯を、色彩豊かに描いた幕(パド)を前に、その由来・縁起を絵解きしながら、歌い踊るもの。男女2名のペアーで行われるのが普通だが、男と女装の男のペアーの場合もある。中央アジア、中国を経て、日本列島にも伝わり、芸能の伝播についての重要な手掛かりである。

アルメニアのジプシー(ボーシャ)の歌と演奏

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アルメニアはトルコ、イランの北、カフカース山地の南部に位置する小国である。アルメニア共和国として1990年に独立するまでは、ソ連邦に属する15の共和国中、最小の共和国だった。面積は日本の13分の1。首都はエレヴァン。人口は350万。世界で最初にキリスト教を受け入れた国で、ノアの箱舟がたどりついたアララト山(現在2006年トルコ領内)はアルメニア人のこころのふるさとである。インドから出立してアルメニアにたどりついたジプシーの末裔の1部がヨーロッパなどに拡散する前に滞在し、そのまま住み着いたとみられる。彼らは国家からも公認されず、ひっそりと生きている。ボーシャとよばれる彼らの居住地を訪ね、うたや楽器演奏、伝承などをドキュメント。
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1.アルメニアについて:紀元前7世紀までさかのぼれるほど、アルメニア民族の歴史は古い。その歴史、体験した民族の悲劇ジェノサイド、民族問題について。
2.インドとヨーロッパをつなぐキーワード:インド北西部を出立したジプシーがたどりついた地アルメニアに刻み込んだジプシーのアイデンティーについて。
3.籠つくりの民、アルメニア・ジプシー(ボーシャ):ジプシーが歴史的に重要な生業としてきた籠つくりの技術が、アルメニアのボーシャのなかに脈々と伝えられていた。彼らの記憶のなかから民族的な音楽的才能・豊富な伝承がよみがえる。

マケドニアのジプシーバンドそして大道芸の少年と妹

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旧ユーゴスラビア共和国の一部だったマケドニアはコソボ紛争などで揺れたバルカン半島にある。。中心都市スコピエには世界最大規模といわれるジプシーの集落,シュト・オリザリがある。2006年8月。1年で最も活気があるこの地区で結婚式が連日行われた。ジプシーミュージシャンの稼ぎ時だ。独特の風習が生き生きと脈打つジプシー街でのジプシーミュージックのドキュメント。さらに広場で少年と妹の太鼓とうた、踊りの胸を打つ大道芸。尚、マケドニアの取材は横井雅子さん(国立音楽大学助教授)、森谷理紗さん(モスクワ留学中)、濱崎友絵さん(東京藝術大学大学院)たちが放送文化基金の助成を得て行う調査に合流させていただいて実現した。したがってマケドニアについての記述(概説・紀行コメント)は共同作業の結果である。(もちろん文責は市川にある。)

1.世界最大のジプシー集落、シュト・オリザリ:ジプシー集落、シュト・オリザリの現実の姿。行政的にも公認され、独特の活気ある集落の今後は?
2.ジプシーの放送局ロマ・シアター:シュト・オリザリにはジプシー自身が経営するテレビ局が2局あり、それぞれ特色あるプログラムを発信している。ロマ語による放送そして多彩、豊富なジプシーミュージック番組などについて。
3.結婚式:毎年、8月はシュト・オリザリが最も活気つき、エネルギーが爆発する時期だ。海外に出稼ぎにいっている家族が集結し、人口も増える。伝統にのっとった結婚式が街のそこかしこで行われ、家の前の飾りつけは華やかに装飾され、街路は祝福のパレードで通行止めになる。
4.ジプシーのサブ・グループ:マケドニアのジプシーは職種によって多くのよび方がされる。そこからかれらの歴史が浮かび上がってくる。
5.大道芸の少年と妹:灼熱の8月。スコピエの広場でついに大道芸の幼い少年と妹に出合った。

■トルコのジプシー(チンゲネ)バンド

チンゲネ

イスタンブールのスルタンアフメット地区はトプカピ宮殿な有名なブルーモスクなどある旧市街の歴史地区の中心だが、ジプシーが多数、住んでいる地区でもある。観光客が集まるレストランなどはジプシーバンドの重要な職場だ。チンゲネ(ジプシー)とよばれる彼らの一夜の記録。そして6人編成のバンドの演奏を収録。

1.トルコへ15時間のバス移動:スコピエから北に上り、ブルガリアに入り国境沿いにトルコに向う長距離バスは重要な路線だ。
2.海鮮レストラン街のジプシー(チンゲネ)バンド:海に面したレストラン街は海鮮料理店がずらりと並び観光客やトルコ人で賑わう。そこは流しのバンドにとっても稼ぎのスポットだ。
3.フロントマン、ゼキのこと:25歳という歳の割には大人の風格をもつフロントマン。世話になったが、彼には彼なりの悩み、希望がある。
4.プロの腕前のチンゲネバンド:トルコには彼らのようなかなりの腕前のジプシーミュージシャンたちが相当存在する。


ジプシーについての概説

ジプシーの出自と拡散

はじめに
 

<ジプシー>といわれる人びとは地球上のどこからやってきたのか。芸能者としての彼らの足跡はどこから出発したのか。それは非定住<漂泊・放浪>と芸能との関係を考えることだ。
 平安朝の傀儡子以来、日本列島を巡り続けてきた漂泊・放浪の民は日本列島では、復活した猿回し、太神楽などごくわずかを除き、ほとんど絶滅した。彼らの出自のものがたりはこの日本列島と地球上の様々な地域と芸能の水脈で繋がっていたのだ。
古今東西、訪れる芸能者は、人びとに神への畏れを抱かせるが故に畏敬され、そして同時に軽侮の対象でもあった。彼らの訪れは、人びとのこころにさざなみを立たせ、つかの間の非日常性をもたらした。 やがて、どこへ行くでもなく、立ち去っていく彼らの後姿をみつめながら、人びとはさまざまな思いにとらわれてきたに違いない。彼らがもつ無頼な風情に私は魅了されてきたが、この風情の感覚は日本列島だけでなく、地球上の各地域で共通するものだった。それは主に非定住する側の人びと、漂泊・放浪・流浪の生活を続ける人びとから発せられるものだった。
特に<ジプシー>といわれる人びとのうたや踊りなどが強く示唆するのは、彼らの濃密で堅固なアイデンティティの存在であり、私を魅了する共通の風情の感覚があるように思われた。<ジプシー>と称される人びとの出自を探ることは、この共通する風情の感覚の原郷を探ることに等しい。彼らの心性にふれてみたいという個人的動機からジプシーのうたを求めて、私の旅ははじまったのである。


ジプシーという言葉

ジプシーといっても、確たる統一されたイメージを持っている人はそれほど多いとは思えない。ある人は放浪する民族という一般的理解をもち、ある人はスペインのフラメンコを思い起こし、さらに音楽的才能の豊かなさすらい人の集団をイメージしたりまた、オペラや小説の「カルメン」を思い起こす人もいるだろう。さらにはヨーロッパなどの大都会で遭遇する油断ならない輩たちと結びつくイメージなどなど、実に多様な受けとめ方をされている。そのどれにも実像と虚像が複雑に入り組んでいるように思われる。
そこでごく一般的な理解を助けるために広辞苑を引いてみた。それによると、 「Gypsy 」①インド北西部が発祥の地といわれ、6-7世紀から移動し始めて、今日ではヨーロッパ諸国・西アジア・北アフリカ・アメリカ合衆国に広く分布する民族。言語はインド・イラン語系のロマニ語を主体とする。移動生活を続けるジプシーは、動物の曲芸・占い術・手工芸品製作・音楽などの独特な伝統を維持する。ロマ。②転じて、放浪生活をする人々。(第5版1998年11月発行) 更に念のため、より古い第4版を見てみると、微妙で興味深い相違がある。「G ypsy」①インド北西部が発祥の地といわれ、6-7世紀から移動し始めて、今日ではヨーロッパ諸国・西アジア・北アフリカ・アメリカ合衆国に広く分布する民族。言語はインド・イラン語系のロマニ語を主体とし、髪は黒く皮膚の色は黄褐色またはオリーブ色。移動生活を続けるジプシーは、動物の曲芸・占い術・手工芸品製作・音楽・などの独特な伝統を維持している。②転じて、放浪生活をする人々。(第4版1991年11月)
 インドからの移動開始の時期などは学者、研究者により諸説あるが、要領よくまとまっている。下線の部分、呼称と身体的特徴についての記述がそれぞれつけ加えられたり、削除されている。このことは1990年代においてジプシーに対する世界の認識が変遷してきたことを物語っている。
ジプシーという言葉は、英語による他称であり、多くの地域では<ロムRom>(複数形<ロマRoma>)とか<ロマニRomany>を自称している。これらの自称は、<ロマニ語Romani>という彼らの言語で<人間>を意味するのである。1000年以上もの時間にわたって変遷を経てきた今日のロマニ語には単一の標準語は存在しないといわれ、ヨーロッパだけでも60種類以上の方言があるとされている。
広辞苑第5版にのったロマという言葉はジプシーという呼称にたいする様々な立場からの主張を考慮した結果の追加だろう。ジプシーという言葉に侮蔑的意味を嗅ぎ取る人びとの存在に意をはらった結果である。また、髪の色や皮膚の色を特定なものとすることは、いわれなき差別を誘発しかねないという判断から第5版では削除されたのだろう。
この2点の追加・削除という事実からだけでも、地球上におけるジプシーの立場、受けとめられ方に微妙な変化が起きてきたことが分かる。ジプシーという言葉は、定住者から彼らを指すのに用いられた他称であり、定住者側の論理、無理解そして偏見からくる差別的含意がともなうことを留意する必要がある。しかしながら、敢えて自分たちをジプシーと呼ぶ人々もいるのも事実である。彼らは呼び名が新しくなったからといって自分たちを見る目が変わるわけではないことを知っているのであろう。私はジプシーからロム、ロマへと単に言葉を言い換えるだけで、その実体を見つめようとせずに、やり過そうとする立場には立ちたくない。要は言葉そのものよりも、どのような意図、立場から発せられるかが問題なのである。


ジプシーはどこから来たのか

だが、ジプシーはどこからきたのかという問題については、主に言語学的研究の蓄積から、インドからというのが今は大勢だが、あくまで文献による言語学者たちの推測が中心であり、その出立の時期をめぐっても、多くの説があることが分ってきた。資料を読んだり、各地を回る続けるあいだに、私には徐々に「インド」、「ジプシー」そして「日本列島」が大きな枠組みのなかである連環したものとして考えられないかという仮説がふくらんでいったのである。
インドで見たボーパなどの絵解きの系譜は日本にも寺院などを中心にかなり存在していたことは放浪芸の探索で分っていた。猿回しは東南アジア一帯や、中国においても存在するし、日本でも一時の絶滅状態から復活した。その他インドで見られる様々な注目すべき諸芸能は日本列島においても以前は見られたものが多いし、現在でも見られるものはある。インドとジプシーのつながりでみると、熊つかいはジプシーのなかではウルサリといわれ有名なことであり、猿も飼いながら旅をするらしいというような事実である。例えば熊つかいについては蛇つかいや動物一般の飼い慣らし、曲芸や奇術などとともに、はやくも12世紀のビザンティン帝国の文献に、ジプシーの出現を記録するなかで、やや軽蔑的なとりあげかたで出てくるほどである。こうした芸能的な共通性を考えていくとその背景に、インドとジプシーの人びとの伝統的な職業や生活習慣、習俗のありかたが、より見えてくるかもしれないと思えてくるのだった。


インド起源説と出立をめぐる諸説

ジプシーのインド起源説について概観する。ジプシーの移動に関する千年の歴史の、ほぼ半分については、残存する記録のなかで現代に通用する文献資料はほとんど存在しないといわれる。しかもジプシーは自らの記録をいっさい残していない。残された文献資料は常に他者による偏見、無理解にもとづく記録である場合が多い。
ヨーロッパではジプシーを指す呼称はいろいろある。英語のジプシーはイジプシャンEgyptianがつまったものとされる。フランス語の<ジタンGitan>、スペイン語の<ヒタノGitano>とともに彼らがエジプトからきたと信じられていたことを示している。また、ギリシアで彼らが<アツィンガニ(異教徒)>と呼ばれたことに由来して、フランス語では<ツィガンTsigane>とも、ドイツ語では<ツィゴイナーZigeuner>、イタリア語では<ツィンガロZingaro>と呼ぶ。
11世紀頃には、ジプシーはバルカン半島に達していたとされ、ギリシアを経て西ヨーロッパに姿を現したのは15世紀初頭とされているが、それまでヨーロッパの人びとは彼らの正体についてはまったく分らなかったのである。
ジプシーのインド起源説は18世紀以降、学者たちのあいだで広く知られるようになったが、それはインドの言葉を理解する人たちが身近にいることに気がついた研究者たちによってである。1753年に、ハンガリーのイシュトヴァーン・ヴァリという聖職者がオランダのライデン大学に学んでいたとき、インド南西部のマラバル海岸からきた3人の留学生と知り合いになり、ヴァリは彼らから母国語について1000語にのぼる言葉を採取した。その後ハンガリーに帰国後、国内で話されているロマニ語との類似に気づいたヴァリは、さらに地元のロマたちが採取した言葉を理解することを発見したのである。
また、1783年、ゲッティンゲン大学のドイツ人ハインリヒ・グレルマンが著書「ジプシー」を刊行して、ロマニ語とインド・アーリア語との比較を行い、両者の一致する割合が多いことを、歴史言語学的な分析で明らかにした。
ではジプシーの祖先たちはいつインドを出て行ったのか。最初の手掛かりとして、ジプシーのことが歴史にあらわれてくるのは、ペルシアの歴史家ハムザが「王の歴史」(950年)のなかで、5世紀ササン朝ペルシアのシャーだったバフラム・グールについて書き記したもののなかである。
それは、臣下のことをいたく気遣う王は、臣下の楽しみのために、インドの王様に頼んで1万2000人のゾットという楽士を招き寄せたという内容だ。そして60年後の1011年、似たような話がペルシアの詩人、フィルドゥシーの叙事詩「王の書(シャーナーメ)」にも登場する。
内容は、バフラム・グール王は、金持ちは音楽を聞きながら酒を飲めるのに、貧乏人はそれができないという不満を聞き、ただちに使いをインドのシャンガル王に送り、リュートを演奏できるルリの男女を1万人招きたいと申し入れた。ルリの男女がやってくると、王は彼らにロバと牛と小麦を与えた。それは彼らを作男として働かせ、リュートもやらせようと思ったからだった。ところがルリはまもなく小麦も牛も食べつくしてしまった。王は彼らを咎めて、残っているロバの背に楽器をくくりつけて,うたやリュートで身を立てていけ、と追放した。こうしてルリは今もさすらいの日々を送っている。日々の糧を乞食し、オオカミや犬の傍で眠り、路上で昼夜盗みを働いている、というものだ。
ゾットやルリはジプシーを指すペルシア語である。これらの物語はそのまま事実とは思えないが、ある時期にインドから出て行った原ジプシーがペルシアを経過した歴史的な事実が伝承化したものと理解できる。


カースト制度

カースト制について

インドのカースト制についてはほとんどの人は中学・高校の世界史の授業で習った知識以上のものはもたないだろう。人間を階層で分けるのは何故なのか、その歴史的由来や現状などについては、何かの縁でインドに特別の関心を持たない限り人びとは敢えて知ろうとはしないだろう。身分的な階層区分としては、日本でも江戸時代の封建社会の階級観念に従って士農工商が確立したし、それ以前にも遥か古代、中世の時代にも賎視された人びとがいたことはある程度知られているが、その発生の経緯や賎視された理由などについては時代が古くなればなるほど学者・研究家のフィールドにまかされている。古いといってもこうした問題が出てくるのは、せいぜい8世紀以降の奈良・平安時代以降であろうから、インドのカースト制は紀元前から発生して存在し続けてきたと聞くと、その起源の古さに言葉を失うほどだ。
カーストという語はポルトガル人が使ったカスタ(casta)というポルトガル語に由来している。15世紀以来インドに進出したポルトガル人は、インドの人々の集団的身分区分を、ポルトガル語で「血統」「人種」「種類」などを意味するカスタという語を使い、それが、イギリス人によって踏襲されたらしい。バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの4区分は、インドでは普通ヴァルナ(varna)という語で表されている。
ヴァルナという語はサンスクリット語で「色」を意味するが、歴史的にはインド=アーリア民族がインドに進入し、色の黒い先住民族を屈服させていった過程で、色の白いアーリア人と彼らを区別するためヴァルナという語を使用したのが始まりだろうといわれている。始めは、4区分ではなく、色の白い征服者のアーリア人と色の濃い被征服者たる他の民族を分ける2つの区分だったのが、後にアーリア民族の内部で、僧侶階級としてのバラモン、王族・戦士階級としてのクシャトリヤ、商業・工業・農業のヴァイシャの3つに分かれていき、その下にいろの濃い被征服民族で奴隷階級とされたシュードラという区分が加えられた。
4区分の成立である。こうした4つの身分を区分する社会制度の原型ができあがったのが前8世紀以降の後期ヴェーダ時代だとされている。さらに紀元前後の頃になると、その頃に成立したヒンドゥー教の有名な法典「マヌ法典」は4ヴァルナのそれぞれに対して、神が付与した職務について記載している。その中で、バラモンに対してはヴェーダの教授、学習,布施などを付与し、クシャトリヤに対しては人民の保護、布施、ヴェーダの学習など、ヴァイシャに対しては家畜の保護、布施、ヴェーダの学習、商業、金貸しや耕作などを指令した。がシュードラに対しては,唯一の職務、以上の3ヴァルナに対して不平なく奉仕することだけが記載されている。これによっても、上位3ヴァルナに比較してシュードラの地位が決定的に低いことは明らかである。
こうした4つの身分を区分する社会制度をカースト制度と呼ぶことはあるが、4つの身分の区分自体は、通常ヴァルナという場合が多い。
さらにインドでは、床を拭く者や洗濯人の属するコミュニティーのようなもっと小さな具体的集団をさして「生まれ」を意味するジャーティという語を使う。インド社会では多くのジャーティから成立しており、2000とも3000とも言われる。インドの社会で生きていくうえで、大きな意味をもっているのはジャーティの別である。絵解き芸人ボーパ、宮廷楽士マンガニヤール、蛇つかい、踊りなどの門付け芸人カルベリアという語はジャーティを意味しているのである。
ヴァルナとジャーティとの関係でいうと、4つのヴァルナは数多いジャーティの枠組みのようなもので、個々のジャーティは、通常4つのヴァルナのどれかに含まれるが、ヴァルナの外にはじき出されるジャーティはアウト・カーストとか不可触民などと呼ばれるのである。
ジャーティの集団はいくつかの特性があり、内部でしか行われない族内結婚、特定の職業と結びつくこと、そしてジャーティの間に上下関係のランキングがあるのである。そして上下関係は浄・不浄の観念が決定的に影響しあって成立している。上位のジャーティは下位のジャーティと交わること、特に食事をともにすることから穢れることを恐れる。すでに記述した食物の受け取り、水のやりとりなどを拒否することなどはこうした穢れの観念のためである。


結婚・飲食・穢れ

ジャーティ集団は歴史を通じて不変のものと考えるのは誤りで、実際にはかなり流動的である。ジャーティの集団の中で何らかの分派が生じて、その分派が1つのジャーティを形成する。そしてこれがカーストの数の増加をもたらす。
ヒンドゥー教の観念によれば、異ヴァルナ間の結婚であっても、男性のヴァルナの方が上位ならば、まだ許されるが、女性が上位ヴァルナで男性が下位ヴァルナの場合は、罪になるとされる。例えばバラモンの娘とシュードラの男性の間に生まれた子は、チャンダーラというアウト・カーストに落とされる。このチャンダーラという語はサンスクリット語で、日本にはいってきた仏典の中でしばしば用いられ、「旃陀羅」(せんだら)という言葉はその音写語である。13世紀後半の辞書「塵袋」には「天竺ニ旃陀羅ト云フハ屠者也。イキ物ヲ殺シテウルエタ躰ノ悪人也」とあり、旃陀羅は屠者であって、生き物を殺して売るエタであると述べている。13世紀の日本には旃陀羅について賎民視する共通認識が出来上がっていたことがわかる。 ジャーティ間の飲食や水のやりとりはカースト間のランキングに重要な意味をもっている。普通は、上位カーストの者は下位カーストの者から食物や水を受け取って食べることができない。この風習の裏には、穢れの観念が存在しており、上位カーストの者が下位カーストの者から飲食物を受け取ると、それによって下位カーストの穢れが伝わって己が穢れることになると考えるのである。こうした穢れの伝達(抽象的な汚染)はなんとしてもさけなければならないと考えるのである。そして穢れの原因は多くの場合、そのカーストの職業と結びつくのである。すなわち、その職業は穢れを伴うと考えられるのである。この穢れという観念は、物理的な意味での穢れではなく、あくまでも観念として、宗教的浄・不浄性の問題である。物理的な意味の穢れならば、きよめることは可能でも、観念的な穢れの意識は心の問題だけに深刻である。
穢れの問題は複雑で、古代社会の禁忌観念や習俗にまでさかのぼって考えなければならない問題である。ただインドの社会で明らかに穢れと結びつけられているものは「血」と「死」であろう。女性の生理やお産のときの血は穢れとされるし、生理期間中の女性は料理をすることは許されない。このように生理が穢れているとなると、穢れた衣類などを扱う洗濯人は、それに触れることによって汚染されることになり、したがって洗濯人自身が穢れた存在ということになってしまう。死も穢れをもたらすとされ、そうした関係から屠殺人、皮革職人などは穢れた存在とされる。しかし、すべてのカーストが職業の浄・不浄によってランクされるわけではない。例えば農業に従事するカーストは数多くあるわけで、これらの間のランキングは別の原理をもってこないかぎり不可能である。


アウト・カースト

さらアウト・カーストとバラモンとの関係においては、まったく居住する世界が異なるわけで、お互いにその通りのなかに足をふみ入れることはない。アウト・カーストが足をふみ入れることによって、あるいはその姿が眼に入ることによっても、バラモン居住区の住人には大変な穢れがもたらされるとされるわけで、したがってバラモンが、逆にアウト・カーストの居住区に足をふみ入れることもまた起こりえないのである。
アウト・カーストの人たちは、先に述べたようにヴァルナとジャーティによるカースト制度が成立していく過程で、穢れの観念と強く結びつく行為をその職業としていたり、あるいはヒンドゥーの信仰を受け入れることができなかった部族民であったりという事情のためにヴァルナのなかに入り込めなかった人びとのことである。アウト・カーストの人びとの人口は1961年の統計では6500万人で、総人口の15パーセント弱に当たる。彼らは穢れとむすびつけられる伝統的職業に従事する他、かなりの度合い(35パーセント)で農業労働に従事しており、その意味では過去のインド社会の実体を支えてきた存在であったにもかかわらず、差別され虐げられてきた。
バラモンによる非バラモンの搾取、ヴァルナをもつ者によるアウト・カーストの搾取と重層的な搾取構造があったのである。しかしながらインド憲法の起草者の1人であり、自身アウト・カーストであったアーンベトカル(1891-1956)の存在やアウト・カースト内部からの政治的発言力への欲求などが起こり、彼らを取り囲む環境も徐々に変化をみせてきている。なお現在インドでは、アウト・カーストおよび不可触民という語の代わりに、公には指定カースト(Scheduled Caste)という用語が使用されているが、指定カーストという集団があるわけではなく、歴史的差別にあった各地域の不可触諸カーストを独立後、保護政策の対象として指定したのである。原則的にはヒンドゥー教徒、シク教徒について指定し、イスラム、キリスト諸教徒、仏教徒は対象外である。またガンディーは、彼らをハリジャン(神の子)と呼び、ヒンドゥーの意識改革に取り組んだ。


ジョーギー、カルベリア、マンガニヤール、ボーパなど

ジプシーの祖先、ジョーギーに出会った

インドの音楽・芸能には「古典と民俗」、「中央と周縁」、「正統と異端」という対照的なカテゴリーが画然と分離しないで、クロスする境界のゾーンが広いのが大きな特徴だが、ジョーギーのうたは境界ではなく、極地そのものだ。彼女たちのうたにはインド大陸に綿々と伝わってきた「民俗的なもの」「周縁的なもの」「異端的なもの」の極地が宿っている。彼らの仮のテント小屋には家具類などはほとんどなく、数点の衣装といつも身につけている装飾類だけが財産といえばいえるだけの簡素な生活だ。伝統的にとられてきた漂泊・遍歴の歴史のなかでは、定住者の文化との出会いは限られたものであり、それから影響されることが少なかったと想像できるのだ。門付けによる物乞いや蛇遣いをしながら放浪・遍歴するテリトリーが砂漠であったということが、彼らのうたのあり方まで含めて習俗自体を変化させずにきたと思われる。
私は求めてきたジプシー民族の祖先に出会えたと思った。ラージャスターン州のタール砂漠を今も漂泊・遍歴の生活を続けながら、門付け芸で生きる糧を稼ぐという生活習俗、土地を所有せず、家財類も持たない身軽さ、小集団を構成する家族、早婚そして何よりも彼女たちのうたから伝わってくるものから、ヨーロッパへ移動していったジプシーの祖先のひとつはジョーギーであると確信した。
もちろんジョーギーだけが祖先ではあるまい。他の様々な職能集団が長年の間に移動を繰り返していったことだろう。芸能はもとより籠つくり、金属細工、木工細工などの多様な手工業やその他蹄鉄、鍛冶、砂金採り、熊つかい、占いなどの生業に携わる集団が移動を重ねていったのだろう。
どのような理由や事情からであろうと、数百年にわたりインドから漂泊放浪の旅を続けながら西へ移動していった人びとには定住生活者にはみられない独自の価値観さらには習俗・習慣が形成されていっただろう。彼らが土地を所有しないということは、漂泊の民としては当然の生きかたであるとはいえ、このことは彼らの本質を規定する重要な属性である。定住の文化がほとんど農耕生活から派生し、そこから階層分化が起こり、賃金労働の概念が生じ、ついには立身出世などという生きかたがでてくる世界とは無縁な世界観のなかに、ジプシーは生きていくのである。社会経済的変動がおこり、大量の賃金労働者が生み出されるようになっても、彼らはそうした生きかたを徹底的に拒否していくのである。
灼熱の砂漠で目にした原風景ともいうべき光景は、私たちが古くから身につけてきた常識という価値観からは理解不可能な別の価値観で貫かれていた生活だった。それは定住者の側からの視点の論理ではなく、非定住者側からの視点の論理で貫かれていたものだった。それは余計なものがない、ただ人間が生きるという原型がくっきり浮かび上がる光景だった。


民族の音感覚

ジョーギーの女たちのうたを耳にしてから、私はかつて、彼女たちの声から感じたものと共通する印象を受けた体験を思い起こした。それは1993年の中国雲南省西北部の怒江(ヌージャン)流域の海抜3千メートルの高地に居住するチベット系の少数民族ヌー族を訪ねたときの体験だった。私はラムトゥン村とトクパ村という2つの村を訪ねた。このふたつの村にはキリスト教が入っており、村民の80パーセントがキリスト教を信仰していた。19世紀末にカナダ人宣教師が入り、布教した結果らしい。しかしながら驚くべきは多くの村びとがキリスト教を信じる村にもシャーマン(宗教的職能者)がいたことであった。このシャーマンは情歌などをうたう芸能者であり、また現実に自らをトランス状態に導き、精霊などと交渉してその力を借りて病気治療の儀式も行っていたのである。ちなみに藪医者という言葉があるが、これは当て字で、藪の本来の語は野巫(やぶ)である。野巫は在野のシャーマンで、祈祷で治療する人の意味であり、シャーマンが治療をする行為は野巫医者が治療をするという本来の仕事なのである。
キリストに改宗した村びとがシャーマニズムといかなる距離感を保っていたかは、実相は伺い知れぬところだったが、老シャーマンが20パーセントの非キリスト信者を越えて支持されていることは明らかだった。
私はシャーマニズムとキリスト教が並存する村のありようを記録したいと思い、病気治療の儀式とキリスト教会での賛美歌を撮影した。教会は怒江を見下ろす斜面の一角を切り開いた広場に建てられ、太い材木を椅子代わりにしている素朴なつくりだった。そこでうたわれた賛美歌は聞きなれたものもあったが、女性が多くを占めた30名ほどの人びとの発声は野性味たっぷりの地声で、ブルガリアン・ヴォイスやグルジアの合唱を連想させるほどだった。キリスト教賛美歌の敬虔な雰囲気よりも土俗的な匂いを強く感じるうたであった。彼らのなかには、民族的音感覚が奥深く肉体化されており、賛美歌をうたおうが情歌をうたおうが関係なく、遠い記憶の音が噴出してくるように思われた。
ジョーギーの女たちのうたを聞いて、ヌー族の賛美歌を連想したことは、ともに近代の音楽的装飾と縁のない民族がもつ音感覚を強く感じたからであろう。この連想はさらに、美空ひばりのうた、なかでも彼女がうたったジャズからも引き出されてくる。彼女のジャズは不思議な思いを起こし、見事な歌唱力を越えて聞こえてくるのは、ジャズというより、ひばりジャズとでもいうべきもので、日本古層の歌謡性をなによりも強く示唆してくるのである。ジョーギーのうたには、人がうたうことの意味を、ヌー族や美空ひばりのうたのありかたまでにも及んで考えさせるものがある。


ジョーギーとは―――ヨーガ行者、火葬場のジョーギー

ジョーギーについて、インドの民族学調査報告書「インドの人びと――ラージャスターン」(「PEOPLE OF INDIA Rajasthan」)によれば、ジョーギーはジョーギー・カニーパ(Jogi Kanipa)としてのっている。ジョーギーは放浪するコミュニティーで乞食や石臼つくりをしている。隣接するコミュニティーの人びとは彼らをカルベリアと呼んでいる。彼らに伝わる伝承は次のようなものである。神が人間とカーストを創造したとき、彼らは一片の石を与えられ、食物の材料を砕ける砥石をつくるよう依頼された。それ以来ジョーギー・カニーパとして知られている。彼らはヴァルナのランクが低いことは認めているが、少数民族の部族よりは上だと主張している。しかしながら、上位の浄のカーストはもちろん部族の人びとも、自分たちよりもジョーギーを下位においている。石臼つくりや漆喰は現在でもしているものもいる。女たちはうたや踊りで門付けをすることによって家計を助けている。土地を持たない。
大体、こうした内容であるが、カルベリアについての内容と重なる部分が多いのは、ほとんど実体は同じであると考えられる。ジョーギーについての様々な情報そして市橋氏の意見を総合してみると次のようになる。
そもそもジョーギーという言葉は、ヨーガ行者、行者(ヨーギン)などからきており、シヴァ神を信仰する一宗派の人びとを指し、ナート派とも呼ばれる。ラージャスターン州にはこの派に属するとみられる多くの集団があるが、その主なものには以下のグループがみとめられる。1つは、純粋に宗教的な行として乞食をしているヨーガ苦行僧で、赤黄色の服を着ており、ジョーギーのなかでは尊敬される人とみなされている。2つ目は、ジョーギー・カルベリアなどのように蛇を捕獲し、蛇やさそりに呪文をかける蛇つかいを仕事としながら、門付けや石臼に関する仕事も行う集団。3つ目は予言・魔よけ・占い・野巫(やぶ)医者・詐欺師などの雑多な漂泊者たち。さらにはマサーニヤーという集団は、棺を火葬場から持ってくる役割をもつところからマサーニヤーすなわち「火葬場のジョーギー」と呼ばれている。こうした人びとをジョーギーとよんでいるようだ。
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少女たちは門付け芸能者のカルベリア

彼女たちが全身から発している野太い「気」のようなもの、強いまなざし、黄沙にさらされた旅芸人の風情と年若い割には並外れていた色香などは、彼女たちの踊りとともに、ジプシーのイメージそのものだ。しかし出番が終わった芸人たちはそれぞれ姿を消しており彼女たちの姿もすでにその場から消えていた。
バラニさんに彼女たちのことを聞いてみると、「彼女たちはカルベリアです」という。話を総合してみると、蛇つかいを生業とする漂泊民で、移動しながら村から村へと門付けをするコミュニティーをジョーギーと称し、少女たちは、そのジョーギー・グループのなかのカルベリアに属する門付けの芸能者であるということが分ってきた。最初にバラニさんからもジョーギーという言葉は蛇つかいとして聞いていたが、彼女たちも同じグループだったのだ。ジョーギーという言葉が次第に私のなかで重みを増してきた。
このときは気がつかなかったが、インドへ来る直前に日本でみた映画「ラッチョ・ドローム」の最初のシーンに出てくるラージャスターンの踊り子の衣装は、カルベリアの女性が身につけていたものに形,色合い、模様などが酷似していたことを後で確認することができた。「ラッチョ・ドローム」はトニー・ガトリフ監督が自らのルーツをインド・ラージャスターンからアラブ、ヨーロッパに跡付けるドキュメンタリー・タッチの音楽映画で、ジプシーのルーツの起源を強く暗示する重要なシーンにカルベリアの踊り子を起用していることは私の直感が的外れでないことを裏付けてくれた。
解説書によると、冒頭のラージャスターン州における演奏シーンなどはディヴァーナ(Divana) という演奏グループが出演しているが、演奏スタイルはマンガニヤールそのものだった。これもガトリフ監督がマンガニヤールの音楽をジプシーのルーツとしてとらえている証左である。
ただ、「ラッチョ・ドローム」のインドのシーンはあくまでドキュメンタリー・タッチの「演出」が入っており、ドキュメンタリー記録そのものではないことは明白だ。カルベリアが踊るシーンやマンガニヤールの演奏シーンは、演出され、画面が整理され、きれい過ぎて、現実感が乏しいのはやむを得まい。ガトリフ監督は、彼の考えるジプシー的なイデーを映像化したかっただけなのだろうから。


蛇つかいが生業―――カルベリアとは

現地で調査した情報などから分かったことは次のことである。
カルベリアというコミュニティーは、伝統的には蛇つかいを生業としており、彼らはラージプートを祖先と考えている。そして、自分たちはジョーギーと同一であると主張している。彼らは蛇を捕まえ、蛇つかいをするが、それ以外にもひったくり、強盗、窃盗、手相見、魔術そして踊りで稼ぐ生活を続けているので社会からの賎視を受けているという。当然、土地は持たずに門付けをしながらの放浪の生活が中心であるが、一時的には、村から離れたところに留まる。家畜は犬、羊、豚、にわとり、ロバ、馬、蛇などである。1981年の国勢調査で、ジョーギー・グループのサブ・カーストとしてカルベリアにグループ付けされた。蛇つかいのときは乾いたひょうたんから作ったプーンギーという独特の楽器を吹く。1974-5年に政府によって定住化政策がとられたが、彼らは与えられた定住地から大挙して離れて放浪生活に戻ってしまい、定住化生活は失敗に終わった。彼らの信仰はヒンドゥーである。彼らの踊りは、カルベリアダンスとして伝統的に広く知られており、少女が踊るものである。彼らの生活は他のコミュニティーから距離を保ち、孤立している。
さらにカルベリアにはもう1つカルベリア・メワーラー(Mewara)というグループがいる。ラージャスターン州のメワール(Mewar)から来たのでそういわれている。彼らの生業は竹の伐採と石臼つくりでそれらを市で売っている。アウト・カーストで1981年には人口30、874人という記述がある。土地はなく、放浪生活である。伝統的な石臼つくりの職業は、強力な製粉機が出現してからは滅びる一方で生活のため日雇いもやっている。ヒンドゥー教を信仰。やはり他のコミュニティーからは孤立しており、メンバーは水場では、ポンプで水を汲み,持ってくることは許されている。公共の儀式・会合への出席はできるが、運営などに関与することはできない。
このようなことがだんだん分かってきた。あの踊り子たちはカルベリアの踊り子だったのだ。それにしても彼らのインド社会における地位がいかに低く、賎視されていることか。マンガニヤール、ボーパ、カルベリアは家から家の門付けの放浪者で物乞いが生業とされており、それぞれ楽士,音楽、蛇つかい、踊りなどをしながら生きているのだ。
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音楽が生業の芸能民・・・・・マンガニヤール

民族学調査報告書「インドの人びと――ラージャスターン」(「PEOPLE OF INDIA Rajasthan 」)によるとマンガニヤール(Mangnyar)のmangは物を乞うことを意味し、乞食、物もらいの人々をマンガニヤールと称する。音楽を生業とするコミュニティーで、ジャイサルメールなどにかなり存在し、またパキスタンとの国境を越えて存在している。
 インド独立後も最後まで藩王政に固執したジャイサルメールの王も政府に従い、地位を返上しかつての社会構造が崩壊したとき、それまで王家の官吏をパトロンとして成立していた多くの職業カーストは存立の危機に遭遇した。音楽でパトロンに仕えていたマンガニヤールも例外ではなかったが、現在までしぶとく生き残っている。
彼らはカースト的にはミラースィ(mirasi)と自称しているが、ミラースィの人びとはマンガニヤールを同列とは考えていない。ミラースィとは土地を持つものと、持たざるものがいるが、人の生誕や結婚式の間、うたをうたい、太鼓を打つ職種でありマンガニヤールより上位のコミュニティーに属する。マンガニヤールも祭りや結婚式で報酬をもらうが、うたをうたいながら門付けをして物乞いをする。しかしこれらだけでは生活できないので、日雇いの仕事をやっている。もちろん彼らは土地をもたない。近年は音楽アーチストとして、目立つ存在になってきており、なかにはその卓越した演奏技量から国際的名声を得るものもいる。彼らはイスラム教徒であり、スンニ派に属する。非常に豊富な口承の民間伝承をもち、うたううたの数々は世代を通じて伝達されている。またうたや踊りは独自の伝統をもち、使用する楽器は典型的で地方色が濃い。
さらに報告書には彼らの地位の低さを示すような記述がある。「社会的な、職業上のレヴェルでは彼らは様々なコミュニティーと関係を持つが、上位のカーストのものは彼らから調理された食物や水は受け取らない。同族結婚が厳格に守られ、他のコミュニティーとの結婚はない。彼らは公共の場所へ入ることができるし、公共の井戸を使える。」
この報告書は各コミュニティーの職業,信仰、習俗、伝承などについてふれているが、そのなかに必ずといっていいほど、コミュニティー間の食物や水のやりとりや井戸の使用の是非についての記述がある。異コミュニティー間の接触、交わりによる穢れ意識がインド社会にいかに深く根付いており、日常生活を規制しているかが分り衝撃的である。
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絵解き芸人・・・ボーパ

インドに古くからある絵解きの伝統は主にラージャスターン州から隣のグジャラート州にかけて多く分布している。いろいろな形があったろうが、絵巻物などを示しながらうたったり、語ったりするもので、初期の段階では「ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」のような叙事詩が布教もかねてとりあげられた。
その絵解きを生業とするボーパはマンガニヤールのコミュニティーには含まれないで、別のコミュニティーとして独立している。私は17年前にデリーとラージャスターン州のジョードプルとで2種類のボーパを見た。絵解きをするという点では共通だが、2人の組み合わせでは、母と息子のペアーと、男同士で片方は女形というペアーだった。
母と息子のペアーはデリーのコロニーで見たもので、スタイルはジャイサルメールで見たものと同じであった。男同士のものは、彼らの属するビールというカーストでは女性が芸能を行うことが禁じられているので、女形という形式をとっていたが、男が手にする楽器もグジャーリというラーヴァンハッターの親戚の楽器で、女形は真鍮の盆(ターリー)を両手にしながらアクロバット的な激しい旋回を繰り返す踊りの要素が前面に出たボーパであった。この激しさは見物人のなかから、バブジーとよばれる英雄の霊が乗り移って、トランス状態になったりすることがあるほどである。とにかくこの男と女形のボーパからはシャーマン的要素が濃厚に感じられた。
 本来は、彼らは砂漠の遍歴を重ねるなかで、家々を門付けし喜捨を乞い、招かれて絵解きをして稼ぎを得る伝統的な放浪芸人である。ラージプートの英雄の生涯を色彩豊かに描いたパド(幕)を前に、その由来・縁起について絵解きをしながらうたい踊る大道の芸能である。ボーパは典型的なラーヴァンハッターという楽器とバドと呼ばれる幕をもっている。その幕にはラージプートの英雄神(パブジー)の武勇伝が描写してあり、彼らボーパのことを正確に言うと、パブジー・キ・パドという絵解きをする人びとのことである。「インドの人びと――ラージャスターン」(「PEOPLE OF INDIA Rajasthan」)によれば、
「ボーパはラージプートの後裔であり、クシャトリヤのヴァルナと同等であると主張しているが、ラージプートや他のクシャトリヤのものは彼らボーパを同等とは認めない。彼らはボーパからの調理された食物を受け取らない。他の隣接するカーストも彼らをアウト・カーストの上の中位に位置づけている。」と説明している。
ここにも先のマンガニヤールの人びとが自分たちをミラースィと自称しても、ミラースィの人びとからは認められない構造と共通するものがある。自分たちのコミュニティーを上位のものとして主張するが、上位のコミュニティーからは否定されるのである。それは調理された食物や水を受け取らないという形で表される。インド社会における日常生活で穢れが伝わるということは、なによりも忌避されるのである。
ラージャスターン州の一般的な特徴として、各カーストは3つの名前を持つといわれている。ひとつは尊敬すべきもの、2つめは一般的で中立的なもの、3つめは軽蔑的で、品位をおとしめるものである。ミラースィは尊敬すべき名称、マンガニヤールは一般的な言い方で、軽蔑を含んだ表現にはドームやカミーンがある。
ボーパの女性は多くのコミュニティーの女性に共通して財産相続の権利はないが、社会的・儀式的・経済的側面では重要な役割をもっている。ボーパは1人では移動しないで2人が常にともに行動し、彼女は夫の奏でるラーヴァンハッターに合わせてうたう。パブジーのうたのときは、夫とともにうたう。彼女の役割は重要である。
 また、牛やラクダの治療にも彼らは呼ばれるが、一晩中うたをうたい続ける。そうした時の彼らの報酬は150-200ルピーである。(約500円前後)彼らはヒンドゥーを信仰し、パブジーのことを伝える民謡などを、世代を超えて継承してきた。ボーパはラージプートや様々な牛飼いのグループや他の家畜を持つコミュニティーとも伝統的な関係を保ってきたが、それは社会的レヴェルにおいてであった。ボーパは同族結婚で、他のコミュニティーとは姻戚関係は持たない。彼らは井戸で水を飲めるし、公共の場に近づける。マンガニヤールも同様な扱いであるが、井戸も使えない、公共の施設などには入れないコミュニティーもいるということだ。
 また絵解きはラージャスターン州だけでなく他にも存在している。ベンガル地方ではポトゥアという絵師が自分で絵を描き、うたいながら絵解きをする。マハーラーシュトラ州南部には紙芝居形式の絵解き(チトラカティ)が注目されている。


日本の絵解き

英雄の物語や伝説、高僧や祖師の生涯、寺社の縁起、経典の内容などを描く絵を指し示しながら人びとに説き語りかける日本の絵解きは、仏教発祥の地インドに起こり、中央アジア、中国を経て、日本に伝わったとされている。日本での絵解きの最古の記録は平安時代初期に認められ、仏教信仰を中心として展開していった。
私が1970年当時集中的に取材した日本の列島各地の絵解きは主に寺院に残っていた。和歌山県道成寺の「安珍清姫」、神奈川県遊行寺の「小栗判官照手姫」、三重県教善寺の「冥途の旅日記」、奈良県当麻寺の「当麻曼荼羅」、長野県往生寺の「苅萱石堂丸」の絵解きそして富山県の瑞泉寺の「聖徳太子絵伝」などを見ることができた。道成寺の絵解きは今でも観光客のルートに入っている。
これらはそれぞれの伝承や寺に伝わる縁起の絵巻物を説き語る形式で、すべて1人で演じていた。語る調子は平板になっているものが多かったが、遊行寺の女性の語りには節が残っており、かつて芸能化した時代の片鱗がうかがえた。
これらの絵解きは中世時代に盛んだったようで、僧形の法師が琵琶をひいたりしながら、絵巻物の縁起を語ったのであるが、のちには熊野比丘尼と呼ばれる女性の手に移り、熊野縁起を伝え、地獄極楽の絵を絵解きしながら各地を遊行したのである。さらには流行の歌謡などもうたい、熊野への勧進をつのって歩いたので、勧進比丘尼とも唄比丘尼ともよばれるようになり、さらに売色をもかねるようになったといわれる。
脇田晴子氏の「女性芸能の源流」(角川選書)を見ると、熊野比丘尼などの民間宗教者が布教した熊野縁起にふれている。すなわち、インド天竺の魔訶陀国(まがだ)という国の善哉王(ぜんざい)という王が妃たちや王子との間に起こった嫉妬や暗闘や奇跡の末、黄金作りの飛び車に乗って、日本の熊野に飛来したが、神武天皇のころに3枚の鏡になって現れ、それが本宮(熊野座神社)は阿弥陀如来、西宮(熊野那智神社)は千手観音、中宮(熊野速玉神社)は薬師如来であるという縁起となったという。
熊野権現も本地をインドに求めて物語をつくったということが興味深い。インドのボーパと日本の絵解きとはどのような関連があるのだろうか。日本の絵解きの先祖、熊野比丘尼は遍歴・漂泊の民間宗教者から大道芸能者へとその性格を変えていったが、放浪性は消えなかったと思われる。しかしながら列島各地を歩きながら、中には定住をするような比丘尼もいただろうし、またその影響を強く受け、各地の寺などが縁起を生んでいったことは容易に想像できる。私が1970年にみた絵解きはすべて寺に残ったものだったが、縁起や伝承・物語を絵解きする芸能者を寺が抱えていたのだろうか。いずれにしても、絵解きはかつて日本列島を遍歴した大道芸でもあった。


 

定住・非定住・漂泊・放浪

ジプシーのアイデンティティ:事実上の言語

ジプシーの世界には英雄、偉大な解放、国家創建の神話などは見当たらない。国家もなければ、歴史上の遺跡もない。偉大な過去というような歴史感覚を持たない民なのである。せいぜい祖父母の代より少し前くらいの過去を記憶にとどめる程度である。それ以前の歴史には関心を示さない。地球上のほとんどの国家や民族が己の神話や国家創建などを大切に記録し、そこに民族的な誇りやアイデンティティを求めるのにたいして、ジプシーの歴史や過去にたいする無関心とも思える姿勢はジプシーではない人びとの理解を超えている。
 しかしながら、私にはこうした彼らの姿のほうに可能性を感じている。現在確立している価値観のほとんどは定住して生活する人の立場から積み上げられてきたもので、非定住、漂泊・放浪の生活者からの視点は無視されてきた。記録する文字をもたないジプシーは非定住者の視点をこわもてには主張もしてこなかったが、インドを離れて西へ移動しながら彼らが終始携わってきた実に多彩な種類の仕事が彼らに独特のアイデンティティを形成させてきた。
 多くのジプシーは伝統的な職業である籠つくり、鍛冶、楽士、スプーンつくり、薬草集め、動物芸といった仕事に従事してきたが、これらの仕事は、土地や文字による記録をもたないグループにとって、自分たちのアイデンティティを示す重要な要素であった。それと同時にジプシーと非ジプシーを区別する彼ら独自の明確な規則や価値観が、若干の地域差があるにせよ、ジプシー世界に通用する事実上の言語となっていったのである。
清浄と不浄についての厳格な規則は特に重要な意味を帯びていた。それは彼らの日常の生活を律する掟のようなものであり、例えば洗濯や食器の使用法にもシンボリックな深い意味合いが込められ、ただ汚れを落とすとかいうよりはるかに奥深い意味があった。イザベル・フォンセーカはブルガリアのある家族のことを書いている。それは洗濯をするときに男物、女物、ウエストから上下に分けた衣類、さらに下着類(これも男物と女物を束に分類)と5つの桶を使用する家のことである。ここでは単なる物理的な意味での清潔ではなく、シンボリックで観念的な清浄がなによりも重要で尊ばれるのである。きちんとみえるとか綺麗とかいう価値観は存在しない。 この清浄観念はインドのカースト間の食物や水のやりとりによって穢れが伝わるという穢れ意識と共通するものであろう。また女性の生理やお産のときの血にたいする穢れ意識のありかたも共通しているのである。


聖なる乞食
 

インドの具体的な職業集団をさして「生まれ」を意味するジャーティについては、すでに述べたが、インドの民族学的な調査報告書などでジャーティについての詳細な解説を読むと不思議な気分がしてくるときがある。ラージャスターン州だけでも250種に及ぶジャーティについてその由来、信仰、結婚葬式の風習、職業の内容、伝承などが記載されているのであるが、そのなかで注目すべきは従事する職業を説明する内容に、「物乞い」(Beggar)という言葉の露出が非常に多いことである。マンガニヤール、ジョーギー、カルベリアの仕事のなかには門付けが重要な仕事であることは述べたが、芸能に携わるものはもちろんそれ以外にも実に多くの職種のなかに「物乞い」の記述が多いのである。「物乞い」だけを専門にするものから、他の仕事をしながら「物乞い」も兼業するものなど様々である。
 インドの町を歩けば、托鉢僧、遊行僧、行者が多く見られ、聖者としてあがめられている状況をみれば、「物乞い」は別に特別な存在ではないのかもしれない。乞食することは私たちが考えるように卑下すべき行為ではなく、堂々とした職業のひとつと考えたほうが、インドでは分りやすい。
 さらに、盗み、ひったくりの類を常習としてきたジャーティについても記録があり、私たちの善悪にたいする常識的な価値観をゆさぶるのである。あるグループは300年まえまで盗賊集団とよばれ、犯罪集団として悪名を轟かせ、自分たちのルーツを勇敢な武将集団ラージプートと称したという。伝統的に彼らはひったくりのような犯罪的行為に従事してきたが、最近は自治体や銀行などの警備や監視の仕事に変わってきた。犯罪集団とまでいかなくとも盗み、だまし、詐欺などの行為は占い、呪術などと不可分に結びついており、仕事として紹介、解説されているジャーティも多いのである。
 ジプシーにとっても「物乞い」は重要な仕事である。駅や街角で袖を引っ張って「物乞い」をされるときの気分はあまり愉快ではないが、ジプシーにとっての「物乞い」という行為には、施し物をもらうという考えは存在しないように思える。ロマニ語には「物乞い」という意味の言葉は存在しないといわれ、その代わり「村までいってくる」という言い方があるらしい。そうして女たちはレストランでの楽士の仕事や手工業品の修理といった男たちの労働にたいする不足分の報酬を取り戻しにいくのであろう。 嘘をつくことや正直でないことなどは、ジプシーにとって必ずしもモラルの衰退を意味しない。ジプシーにとって仕事とは、金を稼ぐことであり、籠やスプーンをつくることではなかった。どのような取引でもやるし、どのようなものでも売るのが彼らの商売だ。過去には馬が重要な重要なものだったが、今は自動車になった。売るものがなければ物乞いをする。ただそれだけのことだ。これは決して恥にはならない。それはもうひとつの選択肢であり、金を稼ぐための、仕事の仕方なのだから。
 ジプシーの清浄と不浄の観念や「物乞い」をはじめとする職業観のなかには、明らかにインド・モデルともいうべき社会生活上の規律が受け継がれているのである。そのことについて定住生活者であり、近代資本主義のもとでの価値観を形成してきた人びとが批判をすることは自由だが、その批判はまったく彼らには届かないことも明白である。
ジプシーの人びとにとって、ガジェ(ジプシー以外の人びと)の世界は穢れているという基本的な認識があり、自らを穢れた世界から隔絶して清浄を保っていく彼らの意志を理解しなければ、互いの相互理解は生まれない。彼らの風習・習俗や行為の意味は非定住者側の目で集積されてきた文化であり、知恵なのであり、当然定住者の論理では推し量れないものである。
インドから出立した人びとが巡っていった先々の土地で土着の音楽・踊りなどの諸芸能に出会い、それらと彼ら固有の音感覚や芸能観が絶妙に影響しあってから生み出されたフラメンコは象徴的な精華であろう。ヨーロッパ地域やロシア、小アジアなどで彼らの果たしてきた芸術的、文化的、音楽的な分野への圧倒的な業績は、もし彼らがインドから移動をはじめていなかったと仮定するだけで、地球上の文化状況はより貧しいものになっていただろうと想像するだけで明らかである。ジプシーの人びとがインドからやってきたといくら強調されても、彼らからは集団でインド帰還をしようという声は起こらない。神話と偉大な遺跡をもつユダヤの民がイスラエルをつくったような方向とは対極のベクトルがジプシーの人びとの意図せざる方向なのである。


アルメニアのジプシー(ボーシャ)の歌と演奏

アルメニアについて

世界で最初にキリスト教を受け入れた国

アルメニアはトルコ、イランの北、カフカース山地の南部に位置している。アルメニア共和国として1990年独立するまではソ連邦に属する15の共和国中、最小の共和国だった。面積は約3万平方キロで日本の13分の1。首都はエレヴァン。人口330万。9割までがアルメニア人で、ほかにロシア人、アゼルバイジャン人、クルド人、その他。言語はインド・ヨーロッパ語族のアルメニア語であるが古くから異民族との交流があったため、その系統はいまだにはっきりしていない。宗教上はアルメニア教会の古い伝統がある。
 アルメニア民族の歴史は古く、古代ウラルトゥ王国(紀元前7-5世紀)までさかのぼることができる。紀元4世紀の初めに開明者グレゴリオスの教えを受け入れ、国として最初にキリスト教を受け入れた。国教となったアルメニア教会は、「神にして人の子である」イエス・キリストの2重の性格規定が決まった5世紀半ばのカルケドンの宗教会議に出席してなかったことから、独自の路線、キリストの神性を重視するキリスト単性論派に属した。5世紀初頭には独特のアルメニア文字も発案され、聖書のアルメニア語訳もされた。
古くから大国に囲まれ、地理的にも重要な通商路の交差点であった。アルメニアの故地はアナトリア半島のつけ根、黒海とカスピ海とのあいだヴァン湖(今はトルコ)のあたりである。この土地は、地中海と黒海とカスピ海がなす3角形のなかにおさまり、複数の通商路の交差点になっている。ひとつは中国からのシルクロードで、中央アジアをぬけカスピ海南方にくだり、そこから黒海とカスピ海のあいだのカフカースをあがり、ヨーロッパへ入っていく交易ルート、もうひとつはインド方面からカスピ海の南方にはいり、それからアナトリアの真ん中をぬけて地中海へ出て行くルートである。このふたつの交易ルートが交差する地域がアルメニア高原で、紀元前からの重要な通商路であるがゆえに戦略的な拠点とみなされ、歴史のすべての時期にわたって、領土の分割と植民地化の命運をたどってきた。アルメニア人が故地に国家を建設・維持できたのは断続的でしかなかったのである。
古代ウラルトゥ王国は、ヴァン湖を中心にして、カフカースから現在のトルコ、イランに広がっていた。最大の版図であった9-11世紀のバグラト王朝の大アルメニアは、小アジア東部一帯に広がる一大王国を形成した。しかし、やがてペルシアとビザンツ帝国の間に位置した時代に入り、セルジューク・トルコ、ついでオスマン・トルコ帝国の支配下に置かれた時代を経て、ロシアとトルコ両国の圧迫を受けながら生きることになった。
こうしたなかでも11世紀から300年間の間、地中海岸のキリキア地方にキリキア・アルメニア王国を保ったこともある。16世紀にはいると、オスマン帝国とイランのあいだで争奪が繰り返された結果、アルメニアの地域は両国に分割された。
19世紀に入ると帝政ロシアはカフカース地方に進出。一部アルメニアはロシアの支配下に入った。一方でオスマン帝国の領土内に住んでいたアルメニア人は、権利の主張を阻まれていた。1880年から90年代にかけて、社会主義系の政党が結成された。95年、オスマン帝国のスルタン、アブデュル・ハミトが西欧列強から国内改革の実行を迫られると、トルコ国内でアルメニア人の虐殺が始まった。アルメニア人にとっての最大の惨事は第一次世界大戦をきっかけに起こったトルコ領内でのアルメニア人虐殺である。100万こえる人々が死亡し、国外に脱出したものも50万に及ぶといわれ、アルメニア系アメリカ人をはじめとする在外アルメニア人社会が形成されることになる。現在は650万人が国外に住むという。


民族の悲願

1916年、ロシアはアルメニア人の多く住むトルコ東部を占領したが、国内での社会主義革命の勃発により、この地域とロシア領アルメニアの一部をトルコに割譲せざるをえなくなった。18年4月、ロシアからの独立を目指すカフカース地方のアルメニア、グルジア、アゼルバイジャンはザカフカース連邦共和国を樹立したが,利害の対立で1ヵ月後には解体し、3つの共和国が成立した。18年5月独立したアルメニアは、トルコと単独で戦わざるをえず、その結果アララト山、聖地アニを含むアルパ川、アラズ川以南を失った。同時期にカラバフ、ナヒチェヴァンなどの領有をめぐって、アルメニア・アゼルバイジャン戦争、アルメニア・グルジア戦争が起こっている。
 第一次世界大戦でトルコが敗れると。連合国側はアルメニアの独立を認め、トルコに対し占領地のアルメニアへの返還を求めた。しかしアメリカ国内やトルコの民族派そして周辺諸民族の反対があり、西欧列強もトルコの戦略的位置の重要さからアルメニアへの返還に同調しなかった。こうしたなか、ケマル率いるトルコとアルメニアは20年9月再び戦火を交えたが、アルメニアに勝算はなく、ソ連・ロシアの調亭を受け入れ、ソ連勢力の影響下に置かれた。22年3月にアルメニアはグルジア、アゼルバイジャンとともに再びザカフカース連邦共和国を樹立したが、36年12月にソ連の憲法が制定されたとき、共和国は3つの連邦構成民族共和国に分かれ、モスクワの決定で改めてナヒチェヴァンはアゼルバイジャンの一部となった。
30年代のスターリン大粛清はアルメニアの民族主義を押しつぶし、宗教活動、アルメニア語の出版の禁止、映画の検悦も厳しかった。さらにソ連の要請で工業化の一翼を担わされたアルメニアでは、環境破壊が急速に進み、社会問題になった。また国外に離散していたアルメニア人が戻ってきて、急速な都市化も進んだ。88年のアルメニア大地震は国内の経済基盤に大きな打撃を与えた。民族の悲願である旧領地の返還も進まず、スターリン時代には外相モロトフがアララト山地の放棄を宣言したし、アゼルバイジャンに渡されたナヒチェヴァン、ナガルノ・カラバフについてもアルメニア人に要求は抑えられつづけた。ゴルバチョフの「ペレストロイカ」が進行した88年、ナガルノ・カラバフ問題に関する抗議のデモをきっかけとして民族運動が燃え上がった。90年8月、アルメニアは主権宣言を採択して独立した。ソ連崩壊過程に生じたナガルノ・カラバフ問題は独立後も激化し、アゼルバイジャンとの戦争状態にまで至ったが94年5月ロシアの仲介で一応の停戦合意がなされた。


ジェノサイド

丘のうえにあるジェノサイドモニュメントは、トルコによって大量虐殺された100万に及ぶアルメニア人の犠牲者を追憶して建てられた。アルメニア数千年の歴史上最大の悲劇である。まず目に飛び込んでくるのは、矢のように尖った44メートルの石碑である。花崗岩で作られ空を突く塔はアルメニア人の存続と精神の再生を象徴するものとされている。石碑の塔に走る深い割れ目はアルメニア民族の悲劇と分散を象徴しつつも同時にアルメニア民族の団結も表現している。この石碑の塔を眺めていると、それが矢のように突き刺さるような感覚に襲われるほどである。
そしてモニュメントの中央に追悼の円形サンクチュアリ(聖所)が立っている。12枚の高い、中央に向かって傾いた玄武岩の厚い板が円を形成しており、屋根はない。これらの厚い石板も悲しみを象徴しているという。訪ねたときは朝だったせいか、1人の中年の女性がサンクチュアリの床を清掃していた。中央部には永遠の炎が燃えており、傍らに彼女が手向けた一輪の真紅のバラが置かれていた。アルメニア教会の祈りの音楽がかすかに流れている。石版から炎への勾配ある斜面は訪問者が自然に頭を垂れるよう設計されているという。石碑の塔とサンクチュアリは1967年に完成した。


アルメニア人大量虐殺とは

オスマン・トルコ帝国のアブデュ・ハミトとトルコ軍部による、19世紀末および第一次世界大戦中の1915年に起こったトルコ国内のアルメニア人の大量虐殺についてふれなければならない。トルコ東部のアナトリア地方を祖先の地と考えてここに住んでいたオスマン帝国時代のアルメニア人、約250万は帝政ロシアの支援を受け、重税と差別の撤廃と民族の自立を求めていた。分離独立運動を抑えたいスルタン、アブデュル・ハミトは地域の遊牧民クルド人を巻き込む形で運動を圧殺しようとしていた。1895年から始まった虐殺は5万人といわれる。
さらに1915年に起こった虐殺は最大規模だった。トルコを背後から攻撃するロシアに呼応した国内のアルメニア人の一掃を計画したトルコ軍部による虐殺と東部からの追放により、死者は100万をこえたといわれ、トルコ国外に逃れたものも50万をこえていた。アルメニアは特に1915年の虐殺について、トルコ人関係者の犯罪を追及しようとしたが、戦後のトルコの戦略的地位に注目した西欧はこれには加担せず、ソ連政府もアルメニア人の民族運動の高揚を好まず、トルコとの友好関係を重視したため、アルメニア人にとってこの問題は癒しがたい傷跡を残した。
しかし、最近になって、アルメニア人虐殺の存在を認めようとする世論が起きて、国連などを中心に動きがある。現在も続いているアルメニア人とトルコやアゼルバイジャンとの対立の根底にはこうした虐殺という問題がある。


ジェノサイド博物館

1995年に建設されたジェノサイド博物館は近くの石碑の塔とサンクチュアリの一体となった景観を損なわないため丘の内部に位置するように建てられ、屋根も平らでコンクリートのタイルで覆われている。
入り口に入ると、最初の展示がある。アルメニアらしく石に彫られた地図で、歴史的なアルメニア高原と近隣の国々を示している。北に黒海、東にカスピ海、南にイラン高原そして南西に地中海を配した地図は横9m、縦5mもする大きなものだった。そしてこの地図は1915年に始まった大虐殺が起こるまでにアルメニア人が居住していた西アルメニア(現トルコ領)とトルコのテリトリーを示していた。それから教会や学校など各種の人口統計の数が掲示されている。例えば1914年と虐殺後1922年の各地域ごとに人口の激減が示されている。
ボーシャの人たちが避難してきたと述べていたトルコのエルズルムの人口推移を見てみると、1914年の人口は215、000人のうち、国外追放もしくは殺害されたものは213、500人で、1922年の人口は1500人という凄まじい激減である。
第2の展示はアルメニア人に対して行われた虐殺の目撃の報告書・記録そして1915-7年にかけて撮影された大量の写真。目をそむける残虐な写真だ。また外国の国際機関や議会などにより発行された資料、ジェノサイドについて各国語で書かれた著作物や刊行物の展示など。これらの間にアルメニアの画家によって描かれた人物画が並んでいる。いずれも弾圧を受け、瀕死のアルメニア人が苦悶する表情,姿態を描写したものだが、レアリズムではない抑制のきいたやや抽象的手法で描かれているので露骨な印象は受けなかった。
やや気が重くなった博物館見学の最後に小さな売店に寄った。アルメニア音楽のCDなど購入したが、何気なくぱらぱらめくっていた小冊子のなかに見た絵にはとても引き込まれた。ジェノサイドを生き延びたヴァルドゲス・スレニアネスという画家の紹介パンフで、27ページの質のよくない紙に印刷されたものだった。母親と男の子の連なり芸人を描いたもので、道で弦楽器を弾く母と、投げ銭をいれる籠を両手に抱きながらうたっているけなげな少年の写実風の絵だ。長年こういう世界の芸能者を追いかけてきた私には、このような親と子の道行きを思わせる姿には理屈抜きで感動してしまうところがある。ここには国を越えた人間の感情が活写されている。博物館を出て、重く固まった脳を柔らかくしようと、前庭をぶらぶら歩いた。そこには各国の要人が訪れた際の記念植樹がされており、プレートにはヨハネ・パウロⅡ世やゴルバチョフ時代のソ連外相で今はグルジア大統領シュワルナゼの名前などがあった。


インドとヨーロッパをつなぐキーワード

インドからアルメニアへ

インドを出立した原ジプシーともいうべき人々はどこへ向かったのか。現在では、ジプシーがバルカン半島の諸国やヨーロッパ各国、フランス、ドイツ、スペイン、イギリス、オランダなどに出現した時期については当時の見聞記などの文献から解明されている。
こうなるとヨーロッパとインドを繋ぐキーワードとしての地域が問題になるが、その地としてアルメニアが浮かび上がってきたのである。何らかの理由で人びとがインドから西に向かって移動を開始した時期、経路などについては様々な説があるが、どうやらアルメニアを経由してバルカン半島、ヨーロッパに拡散していったことは間違いないようだということが分ってきた。アルメニアが、ジプシーの祖先のヨーロッパへの移動、拡散への足がかりの地だということが推測できるのである。
そうした推測は言語学上の研究の成果から可能になる。ジプシーの言葉ロマニ語のヨーロッパ諸方言には多数のアルメニア語からの借用語があるらしい。しかもジプシーのアルメニア逗留は長期にわたるものと思われる。ところがアルメニアに関する情報が少ない上に、ジプシー関連の書物をさがしても、アルメニアにふれているものは極端に少ない。結局アルメニアのジプシーについて若干でも記述があったのは、私が目にしたもののなかでは次の3点の書だった。
1。「ジプシー(ロマ)歴史事典」(ドナルド・ケンリック「HISTORICAL DICTIONARY OF THE GYPSIES(ROMANIES)」DONALD KENRICK )
2。「ジプシー」(ジュール・ブロック 木内信敬訳 )
3。「ジプシー」(アンガス・フレーザー 水谷驍訳 )
言語学者でありジプシー研究者でもある英国人、ドナルド・ケンリックは「ジプシー(ロマ)事典」(「HISTORICAL DICTIONARY OF THE GYPSIES(ROMANIES)」)の中のアルメニアの項目で、
「アルメニア共和国のジプシーの人口は10000人と概算される。彼らはインドからヨーロッパへ移動する途中、カフカース地方および北東トルコを通過した際にアルメニア語を話す人々と接触したのだ。そしてこのときかなりたくさんのアルメニアの言葉がロマニよって借用語となり使われた。ジプシーの中にはそのままアルメニアやトルコに留まったものもあり彼らはボーシャもしくはロム(lom)として知られている。彼らはアルメニア系方言ロマヴレンを話す。」(訳 市川)これが全文である。
また序論のなかの「歴史」のなかで、
「ヨーロッパのジプシーたちの祖先はA.D.6世紀からインドを離れはじめた。あるものは自発的にペルシアの金持ちの宮廷に仕えるために残り、遅れて中東のアラブの王朝にも雇われた。その他のものは捕虜として連れてこられ、第3のグループは放浪民で戦さなどでインドに戻れず、西に移動した。」とある。
これらの記述からは、私が会ったボーシャの人たちはヨーロッパに移動したジプシー民族の中で、アルメニアに留まったジプシーであろうと想像されるのである。
またフランスの言語学者、ジュール・ブロックは「ジプシー」のなかで、
「前世紀(19世紀)の終わり頃、トランスコーカシア(ソ連南部、カフカース山脈の南、アルメニア、グルジア等)には、キリスト教徒と回教徒である、およそ600名のジプシーが認められたし、また、もっと東方のエルズルム(トルコ北東部の都市)やトカト(アンカラの北東、トルコ中部の町)までも進出していた、いくつかの孤立したグループもあった。彼らはボーサ族あるいはポーサ族と呼ばれているが、自分たち自身ではロム族と呼んでいた。彼らの生活の様相や流儀は、彼らの祖先に対して疑いを持たせない。その言語は、その文法がほとんど全面的にアルメニア語的であるから、おそらくアルメニア語の一方言であると考えられる。それに反して、語彙には、他のジプシーによってヨーロッパに持ちこまれたのと大部分同じ語であるインド起源の語がたくさんはいっている。ウェールズのジプシー語のなかにまで、bov (ストーブ)kotor(一片) mort(皮膚) grast(車を引く獣)等のいくつかのアルメニア語がのこっていることがわかっている。したがって、アルメニアのジプシーは、ヨーロッパに到達した大移住集団から別れた分枝であることは認められねばならない。」と論じている。
ボーサ族、ポーサ族とあるのはボーシャのことであるのは間違いあるまい。ここで思い出すのは、アルメニアの研究者が言っていたボーシャの語源についてである。彼はボーシャの語源はインド起源であり、プルシャ(北インド語で人という意味)がなまったものだという説を紹介してくれたが、このポーサが似ているのが気になる。さらにエルズルムという地名も、実際に私が会ったボーシャの口から何回も出た地名である。ジュール・ブロックも言語学的見地からアルメニアのジプシー(ボーシャ)がジプシーのヨーロッパへの移動の際、なんらかの理由でアルメニアに留まったと考えている。
もう1つボーシャについてふれた書は英国のジプシー研究家、アンガス・フレーザーの「ジプシー」である。第2章「初期の移動」のなかで
「フェン系ジプシー(ヨーロッパ系とアルメニア系のジプシー 注 市川)がペルシアを去ったあと赴いたと考えられるアルメニアもまた7世紀にはアラブの支配下に入ったが、ペルシア語と違ってアルメニア語にはアラビア語はあまり浸透しなかった。ジプシーのアルメニア逗留が短期間だったはずはない。ロマニ語のヨーロッパ諸方言には多数のアルメニア語からの借用語がある。(中略)アジアのベン方言(アジア系方言 注 市川)には、アルメニア語やオセット語からの借用語はひとつもない。ボーシャと呼ばれるジプシー一族の方言(アルメニア系方言ロマヴレンの生き残り)にもそれはみあたらない。ボーシャは、数世紀後にアルメニアやトルコ、ペルシア、南カフカースを放浪していたことが知られている。ボーシャ(自分たちをロムと呼んだ)の話していたロマニ語は、19世紀になってその研究が始まったとき、すでに惨めな状態にあってすっかり崩れていた。」と述べている。
さらにジプシーのアルメニアからの脱出について
「アルメニアからの脱出がなぜ生じたかについては憶測するほかはないが、作用したであろう攪乱要因にはこと欠かない。ビザンツ帝国の進出は緩慢に進んだと考えられる。それは、最初のうち、ビザンツ帝国とアラブの長期にわたる抗争から生じた国土の荒廃によって促進された。アルメニアの大部分はビザンツ帝国の軍勢によって蹂躙され、結局は11世紀はじめの2-30年間に段階的に併合された。ビザンツ帝国による征服は長くは続かず、やがてセルジューク朝(中央アジアのトルコ人一族)の侵略を受ける。ついには、地中海沿岸のキリキアだけがアルメニア支配下に残された。」と記している。
10世紀末から多くのアルメニア人は故郷を捨て、北シリアや地中海岸のキリキアに移住したがキリキア・アルメニア王国(1080-1375)はシルクロード交易の門戸として栄えたが、苦難の歴史は絶えることはなかった。


「立ったまま埋めてくれ」(イザベル・フォンセーカ くぼたのぞみ訳 青土社)

イザベラ・フォンセーカの「立ったまま埋めてくれ」(くぼたのぞみ訳)は1991-5年にわたり、アルバニア、ブルガリア、旧チェコスロバキア、ドイツ、モルドゥヴァ、ポーランド、ルーマニア、旧ユーゴスラビアなど東・中央ヨーロッパ各地にジプシーを訪ねたルポルタージュである。アルメニアのボーシャのことにはふれていないが、その内容の豊かさにおいて他の追従を許さない傑作であり、読み進むうちにぐいぐい引き込まれていく迫力がある。学者ではなくフリーのライターとしての視線は柔軟で、暖かく、奥深くそして時に辛辣である。「立ったまま埋めてくれ」によって私たちは、はじめて血の通った真実のジプシー像を獲得できたといえる。
フォンセーカは「ヒンドゥーペン―ヒンドゥーであること」という章の中でアルメニアについて次のように記述している。
「ところがロマニ語はアルメニア語に出会ってピリッとした味がついた。(ドゥドゥム)はひょうたん、(ボヴ)はオーブン、(コヴェハニ)は魔女、(グラスト)は馬、ロマニ語で革を表すのはアルメニア語の(モルティ)だ。したがって、ジプシーがアルメニアを通ってヨーロッパへ行ったのはまちがいない。(中略)この音韻変化――実際にこの語の変化――に基づいて、イギリス人言語学者でジプシー学者のジョン・サンプソンは1920年代に最初にロマニ語の方言を分類し、その結果、ロマの移動には二つの大きな集団があったと考えたのである。しかし、言語化石から判断すれば、11世紀のセルジューク・トルコの侵略によって、アルメニア人が追い払われ、彼らと混じって暮らしていたジプシーも追い払われたことがわかる。彼らはビザンティン帝国が支配する西側領域、コンスタンティノープルやトラキアへと移動し、いまでもここには大勢のジプシーが住んでいる。」
彼女もアルメニアという地点をジプシーの移動についてのある種のポイントと考えている。同じ章の中で、
「私は地図に中央ヨーロッパの現在の国境を書き入れ、残りの部分とジプシーの移動ルートは遠い過去のものとして不定形な陸塊のまま残しておくことにした。ジプシーの移動はヨーロッパの地図上に広がる魚の骨になぞらえられてきた。(中略)しかし、私はもっと筋道の通った考え方をしてみた。人々がトレックした跡を二本に分けて考えてはどうかと思ったのだ。まずインドからペルシアを通ってアルメニアへ行きーーーーそこから枝分かれして、シリアやその後イラクとなる土地へ向かう一本の道、さらにそれとは別にビザンティン時代のギリシア、つまりバルカン半島へ行き、そこから西ヨーロッパを経て新世界へ渡る道筋があったのではないか。」
といい、アルメニアから先のルートは、ふたつの移動ルートを想定している。
私は、これらのふたつのルートに加えて、黒海とカスピ海のあいだのカフカースをのぼり黒海北部を経由してヨーロッパへ向かうルートも可能性は高いと思う。アルメニアの故地のヴァン湖周辺は複数の通商路の交差点で、ひとつは中国からのシルクロードで、中央アジアをぬけカスピ海南方に至り、そこから黒海とカスピ海のあいだのカフカースを北上してヨーロッパへはいっていく交易ルートと、いま一つはインド方面からカスピ海南方にはいり、それからアナトリアをぬけて地中海へでていくルートがある。この両交易ルートの交差点がアルメニア高原であることをかんがえるとカフカース・ルートも重要な道筋であろう。
以上の研究者、ジャーナリストたちの論考に加えて、私がアルメニアに入ってから得たボーシャに関する文献情報としては、研究者が教えてくれたアルメニア語の百科事典の記述がある。
「アルメニア語を話すクリスチャンのジプシーはアルメニア語で、<ボーシャ>という。ボーシャの大半は西アルメニア地方(現トルコ領)に住み、また一部はスィノップやエヴドキアなどの小アジア地方に住んでいた。1720年エレヴァンのコンド地区のボーシャがはじめて文献に登場する。彼らはエレヴァンの要塞警護の仕事についていた。1828-9年の露土戦争の後、カラペット大司教に率いられてエルズルム渓谷を出発し、アカルカラク(グルジア)、アカルチェカ(グルジア)、アレキサンドラポル(現ギュムリ、アルメニア)アクタラ(アルメニア)にたどりついた。そのうち一部がエレヴァンにやってきた。すべてのジプシー同様ボーシャたちの故地は北西インドだとする説がある。中肉、浅黒く、頭が丸く、長い顔、狭い額、黒い瞳、黒い髪といった特徴が見られる。言語はインド語派に属するが、アルメニア語と一部ペルシア語の影響が見られる。しかし、現在ではほとんど用いられていない。かつてボーシャは放浪の生活を送っており、男は手工業、農業また一部家畜の世話を行い、女は物々交換や物売り、占いや物乞いを行っていた。唯一の移動手段はロバであった。19世紀末期、ボーシャは半定住となり、現在では定住生活を営んでいる。」
おおかたは、ボーシャがインドから現在のトルコ東部を含むアルメニアに移動してきたこと、そしてアルメニアに留まるものや、さらに西へ向けて移動していった集団がいたことは共通の理解が存在するようだが、時期やルートについてはまだ解明されていないことが多い。しかし、ジプシーがバルカン半島に登場するのが11世紀(後述)であることを考えると、それ以降にアルメニアからの移動は起こったと考えるのが常識的である。
しかし、フォンセーカを除いて、これらのアルメニアについての記述はごく短くしかも著者本人がアルメニアの地を踏んで確認したものではなく、学術書によくある文献資料からの引用に基づくものであることは明らかだった。


籠つくりの民、アルメニア・ジプシー(ボーシャ)

研究者へのインタビューから

1。アルメニアへの定住はいつ頃から始まったとされているかとの質問には、
a.17世紀にアルメニアにいたという記録はある。
b.大半は19世紀前半、露土戦争を逃れてトルコのエルズルムから移動してきた。
c.20世紀初頭のトルコによるジェノサイドの影響。の3つが考えられるが、②の要因が大であるという。
2。ボーシャの置かれている状況はソ連時代と比較して変わったかという質問には、全体としての社会変化(ソ連崩壊)の要素が大きすぎる。現在はアルメニア経済が悪いのでロシアからジプシーは来ていない。ソ連時代には移動は自由だった。
3。ロシア語で書かれた論文集はアルメニア国内では公表を意図していない。この論文が公になることによって、ボーシャに対する差別がさらに増すのを恐れるからである。
4。ボーシャという言葉の語源について質問すると、インド起源の言葉で、プルシャがなまったものだという説があるということを教えてくれた。プルシャは北インドの言葉で「人」という意味である。
5。アルメニア語でジプシーを意味する言葉はゲンチュ(gnchu)だが,この意味は旅するジプシー(travelling gypsy)である。ボーシャは今、定住しているのでゲンチュとはいわない。
6。ボーシャの人口はアルメニア全体で5000人くらいと推定している。
7。ボーシャとアルメニア人との通婚は以前にはあったが、最近は少ない。ボーシャの家族は身内同士ではロム語を使う。
8。篩職人が太鼓職人を兼ねる場合もある。フレームづくりがいずれも同じ技術だからである。篩に使う羊の皮は村人から購入するかもしくは篩と交換する。皮ひもは水にひたして柔らかくしてから編む。
9。カナケルに占いの女性がいる。トルココーヒーの飲み跡で占う。トランプ占いもやる。占いは商売で、自宅やフリーマーケットで営業している。彼女は自分をボーシャと公言して隠そうとしない。
10。ボーシャ独自のうた、踊り、祭り、結婚式などの儀式は今のところ存在は認められていない。彼ら研究者たちも、ボーシャのうた、踊り、祭りなどはアイデンティティの発露として、とても重要なテーマなので、特に注意して探ったがまだ認められていない。
以上、貴重な研究成果を惜しげもなく日本人の私たちに公開してくれたことに正直のところ感謝した。そして彼らの学者としての度量の大きさを尊敬せずにはおれなかった。しかしながら、同時に、長年研究を重ねてきた成果を自国アルメニアでは発表しない(あるいはできない)背景・実情に同情を禁じ得なかった。
ボーシャにまつわる、このあたりの事情は微妙な問題らしく、彼ら研究者は差別を助長しないためと説明したが、アルメニア政府がボーシャの存在を公認していないことや、国内の少数民族問題に影響を与えることなど政治的配慮が背景にあることを感じさせたのである。


籠つくりについて考える

籠つくりは、数あるジプシーの伝統的職業のなかでも古くからジプシーが携わってきた職種であり、インドにおいてもが籠つくり,篩つくりは石臼つくりなどとならんで、特定のグループの伝統的生業とされてきた代表的職種である。インドの籠つくりの先祖がアルメニアへと移動してきて、ある集団は定住し、別の集団はさらに西へ移動していった。おそらくボーシャはいつごろからかは分からないがアルメニアに滞在したグループだったのだろう。ウリと彼らが呼ぶ白っぽく、太い部分が5-6ミリ、長さが1メートル余の葦を数十本束ねながら、籠を編んでいく。この葦の形・白い色などは写真で見たインドのラージャスターン地方の籠つくりと酷似していた。
羊の皮ひもで編んだ篩(ふるい)・・・ここで見た篩は金網のものとともに、網目を羊の皮を細くなめしたひもで交互に編んだ見事な篩だった。網の張り具合も強く、手でバンバンたたいてもびくともしない強い張り具合であった。私などには金網の篩よりも、羊の皮でつくった篩のほうが、職人芸が生んだ工芸品としても優れたものだと思えた。最近でこそ、時代の急激な変貌で跡継ぎがいなく、伝統的な籠つくりが存続するか否かの瀬戸際だが、ボーシャと籠つくりは切っても切り離せない関係であった。
インドのドム(Dom)はある特定のグループを指し、季節的職業や一時的な機会であるとを問わない些細な取引、職人の仕事に従事している。またサブグループのジャラードは死刑執行人、さらにバーンスポードゥ(Bansphod)という竹細工の職人、犬捕獲業、ひもつくり、ドーリという太鼓打ちやシンガー、ダンサー、鉄、真鍮,錫の職人、ロバやぶたの飼育、金貸し、等々多彩な職種がふくまれる。
これらの多くの職業のなかで竹細工師(バーンスポードゥ)は、職業的なカーストで以前は音楽師だという説もある。竹職人は、籠つくり、団扇、鳥籠、ゆりかご、篩(ふるい)、マット、竹製椅子、小寝台などをつくる。
また、ツリ(Thuri)と呼ばれるグループも籠つくりと竹細工をつくった漂泊民だった。彼らはあらゆるタイプの籠をつくる。西インドのツリは太鼓打ちであり、ミュージシャンでもあった。そして伝統的に吟遊詩人の子孫でもあった。
「インドの人びと――ラージャスターン」(「PEOPLE OF INDIA Rajasthan」)のなかでの竹細工師(バーンスポードゥ)についての記述の要旨は以下のようである。
バーンスポードゥという呼び名は、竹の籠仕事に由来する。bansphodという語は竹(bans)を裂く(phodna)ということを意味している。彼らの祖先はラージプートにさかのぼる。遥か昔の口承伝説によると、ラージプートの支配者が人民のために大井戸を作ろうとし、ラージプートたちが雇われた。ラージプートとは8-12世紀末のラージプート時代を築き、北インド史に重要な役割を果たした王侯・部族の総称で、武力によって王族としての地位をヒンドゥー社会のなかに獲得したと考えられている。
そうしたラージプートたちが穴を掘りながら、井戸の傍に泥を投げ下ろし続けると、そこから竹が成長しはじめた。報告を受けた王は竹からなにかを作れないものかと尋ねた。周囲で働いていた者は、竹の伐採の権利を獲得して籠を作りだしていった。出来上がった籠を見て、王は喜び、仕事を続けるよう望んだという。時が過ぎるとともに、彼らはバーンスポードゥとして知られるようになった。
彼らは アウト・カースト=不可触民であり、1981年の国勢調査では3、569人だった。
彼らは土地を持たないコミュニティーで、籠つくりでどうやら生きている。竹籠つくりは彼らの伝統的職業であるが、時には日雇いで稼ぐこともある。彼らは仲買人から竹を購入する。作った籠は地方の市や村で売られる。それぞれの竹細工師(バーンスポードゥ)はいつも籠を供給する特定の村をもっている。彼らはカースト会議でものごとを決める。その機能は不義密通や口論、結婚解消など様々な争いごとを調停することである。罰は破門もしくは罰金である。
また、竹細工師(バーンスポードゥ)は共同体の中に、ボーパ(bhopa)という聖職者を抱えている。彼らは祈祷者であり、薬屋であり、奇術師であった。また、彼らは口承の民謡と民話を豊富にもっている。
以上が要旨であるが、まず井戸掘りと竹との関係が興味深い。そしてバーンスポードゥ、ツリのいずれも竹籠、竹細工に携わりながら音楽師,太鼓打ちなどの芸能に関係があることは何を意味しているのだろうか。さらになぜ竹籠つくりがカーストに入らないアウト・カースト=不可触民として賎視されるのか。


竹と霊力

竹はイネ科タケ亜科に属し、東南アジアを中心に40属600種、日本でも12属150種を数える植物である。日本では古くから「筮竹」による占いや神の憑依する「依代」など霊力を秘めた呪具として使われる一方、生活の用具として優れた実用性をもっている。その特性は強度、軽さ、真っ直ぐさ、弾性、割列しやすさ、入手しやすさなど多い。生活用具としては籠,箕、笊、箒など、装身具としての竹櫛,竹玉などはアニミズムとの関わりを想起させる。楽器としては笛、笙、簓、簫など。建築資材としては主に東南アジアで屋根、床など、茶や花道の茶杓、茶筅、花器など実に多様性に富んだ用途で人間生活に溶け込んでいる。
竹は異常なほどの生長力を示し、古来、その驚異的なエネルギーを神による霊力と考えられてきた。また草でもなければ木でもないマージナルな特性をもつ植物とみられ、呪物として用いられてきた。竹で囲まれた空間は、ある意味を発生する場とされ、こうした「結界」の思想は、「聖」と「俗」、「浄」と「不浄」、「穢れ」と「清め」を区分するだけではなく「穢れ」を忌避する性質ももつとされてきた。
竹の、はっきりした境界をもたないマージナルな特性は聖と穢を同時にあらわす両義性をもち、正と負の両方にまたがることのできる霊的な力を生み出すとされてきた。
日本列島では治水などのため竹林が造成される一方、川筋や川原に住んでいた人びとが治水工事などの使役を通じて竹やぶとの結びつきは深まっていったと思われる。竹は他の木材よりもはるかに入手しやすく、細工にも資本がいらない。道具さえあれば技術的に高度のものもつくれた。住む場を制限され、職業も制限され川筋や山の斜面に追いやられた人たちにとって竹細工の仕事は欠かすべからざる生業となったが、賎視される環境のなかにおかれたのである。


竹籠つくりはなぜ賎視されるのか

ボーシャの住む地区を歩きながら私は、30年前、日本の列島各地で抱いた戸惑い、疑問、発見、感動を思い出していたのだった。ボーシャの人たちが住む一画は外見的には特徴があるわけではないが、ひっそりした、目立たない雰囲気には30年前のものと共通するものがあった。何をするでもない若者がたたずんでいる。家並みを通じる道路から、一歩家に入ると、思いがけないほど多数の家族が生活している。大声などはあまり聞こえないで、大家族が住む家がつらなる一画にしては静寂さがあたりを包む。その中で、籠つくりが行われている。
竹、笹,篠などを素材にして籠、篩(ふるい)、ざるなどの竹製品、笹製品、篠製品(以下総称して竹製品、竹細工とする)をつくる人々が賎視の対象であったことは日本では中世から認められている。私が日本列島を巡ったときも、目指す人びとが竹細工に関係する集落に存在した場合があった。
沖浦和光氏の「竹の民俗誌――日本文化の深層を探る」には
「ところで、中世の中頃から、京都極楽院空也堂の門徒で念仏を唱えて歩く僧形のものがいた。鉢や瓢箪を叩いて回ったので<鉢叩き>と呼ばれたが、関東では<鉦(かね)叩き>と呼ばれた。正月が近くなると念仏を唱えながら藁を束ねた苞(つと)を肩にかつぎ、それに茶筅を差して売り歩いた。茶筅は、抹茶を立てる際にかきまわして泡立てる小さな茶器である。(中略)ところで彼ら<鉢叩き>は、近畿・中国両地方を中心に、四国・九州や関東地方にも散在していた。いずれも小集落を形成していたが、やはり自分たちの耕地はほとんどなかったので、いろんな雑業に従事していた。中国地方の山陽道では、竹細工に従事する者が多かったので<茶筅>と呼ばれた。この場合の茶筅は竹細工職人の代名詞である。山陰地方では、<鉢屋>と呼ばれたが(中略)彼らは念仏踊りに源流をもつ雑芸能を行ったが、万歳などの芸能にすぐれ、山陰では元禄期に歌舞伎をやっている史料が残されている。埋葬、墓守り、医療などもやっていた。」とあり、竹細工職人のなかにさまざまは系譜が存在したことを示している。


井戸掘りと竹

また横井清氏の「的と胞衣(えな)――中世人の生と死」には興味深い記述がある。「歴史のなかの『あそび』」の項で、生活文化史のなかで竹の担ってきた役割について、既往の諸研究に学びなおさねばならないとして、技術と呪術にふれ、三浦圭一氏の中世遺跡の埋井戸にかんする論考を紹介している。「『この埋井戸に結びついた呪術は、その背景に井戸・湧水に対する素朴な信仰があることはいうまでもないことであって、井戸を掘り、池を開くときにも、そこで呪法秘儀が実施された。』ものと推察しているのです。当時、井戸掘り、池開き、池ざらえなどに賎民が従事するのは通例でした。さらには先の勝俣氏(勝俣鎮夫氏 著者注)の説にあった笹(篠)のこともあわせ考えて『埋井戸のときに青竹を節を抜いて使用すること、左義長のときに竹を使用し、地鎮祭のときに敷地の四角に竹を建て注連縄を張ること、竹が便利だから使用されたということでは片づけられないように思える』とし、中世後期の賎民と、竹ぼうきをも含む竹細工、ならびに『竹製の道具を使用した職業』(清掃など)との所縁の深さにも言及して、そのことで彼らが『呪術性をもった職業人とみなされ、疎外された集団と扱われた』ともみられると言及しています。」
ここで言及されている井戸堀りと竹との関係については、先にふれたインド・ラージャスターン州の竹細工師(バーンスポードゥ)の口承伝承との類似性が興味深い。大井戸を掘り、その脇から竹が生えてきたという伝承からは竹のもつ不思議な力=呪術性を読み取れるのではないか。


穢れの観念

竹細工の職業は、ともに日本中世以来の賎民とインドの不可触民の伝統的職種の1つだったという共通性はなにをものがたるのだろうか。
竹の持つ呪性、呪力とは穢れ、ケガレを祓い清める力である。竹や笹などの自然物には神霊が宿ると考えられており、それに何らかの大きな変更を加える場合には呪術的な作業がついてまわらなければさらないとされたのだろうか。こうした穢れ・ケガレの観念はもともとはインドにカースト制を確立したヒンドゥー教の教義体系が源流だと思われる。ヒンドゥー教は<浄・穢>の観念を中心にしてすべての秩序を規定している。特に穢れに関する規定は詳細である。紀元前後にはヒンドゥー教のもっとも有名な「マヌ法典」が生まれ、すでにカースト制度の根幹は完成していた。ただしアウト・カースト=不可触民の規定はまだない。
インドの社会で明白に穢れと結び付けられるものは、「血」と「死」にまつわるものであり、日本でも死穢・産穢・血穢という<三不浄>の思想は平安時代から朝廷貴族を中心に広がっていった。日本列島のケガレの観念は、列島独自に発したものではなく、インドから中国に入った密教を、空海・最澄などが導入したのが契機だったという説もある。特に真言密教が大きな影響力をもつとされている。8世紀の後半から9世紀にかけて中国の長安は国際的な大都市で、インドの高層などが相当いたようだ。これらのケガレの観念がどのように発生してきたのか、そして日本とインドとのケガレの相関関係はあるのかは今後の研究に待つしかない。
インドを出立していった原ジプシーの民もカースト制の呪縛に縛られていたはずであり、下位のカーストかアウト・カースト=不可触民だったことはほぼ間違いない。アルメニアにたどりついたジプシーのうち、なんらかの理由で留まった籠つくりを伝統とする人びとはボーシャと呼ばれるようになった。籠つくりは、遍歴する人びとにとって、どこでも手に入り、少ない資本で始められ、道具類も小刀一丁で済み、完成した商品が軽く、持ち運びが楽だという職業上の利点が多かった。1000年ないしそれ以上前に、インドから移動を開始したのが、一体どのようなカーストや職業、どのような民族的起源の人々だったのか、また彼らはひとつの集団としてもとまってインドを出たのか、何度も繰り返し移動がなされたのかの議論はこれからも続くであろう。
だが、彼らが何世紀にもわたって明確なアイデンティティを強固に保持し、移動する先々で優れた適応力と生存能力を見せつけてきたことは疑う余地のない歴史的事実である。さらに彼らの社会的存在にはインド社会のモデルが濃厚に反映され、多くの遍歴・漂泊集団に固有の特徴が見られるはずである。その特徴の最たるものは、歴史的にもそして現在でも、カースト制に伴う細分化された職種が伝統的に継承されることであり、それはうまれ(ジャーティ)が決定的に関与する。ジャーティごとに職業が決まっていることは、ジャーティ間の経済的相互依存関係が生じ、それぞれの職業が十分な需要を得るためには、常に移動を続けて需要を掘り起こしていかなければならない。さらに彼らは同族内部での結婚を習慣とし、他の社会集団とは境界線を設ける。籠つくりという伝統的な職種をもった集団が、インドを出てアルメニアに到達するまで、唯一のアイデンティティたる籠つくりを捨て去ることはあり得ないことだった。


マケドニアのジプシーバンドそして大道芸の少年と妹

世界最大のジプシー集落、シュト・オリザリ

世界最大のロマの集落、シュト・オリザリ地区の現状・行政を把握するため庁舎を訪ねた。応対してくれたのはブロビッキ・ネジャドさんという助役だった。もともとは建築エンジニアーだったが、現在は主に経済担当で、企業誘致などしている。37歳というが、やや老けている。
●シュト・オリザリの名前の意味:
「シュト」は「何もない・empty」、オリザリは「オリズoriz」からきており「米」の意があり、広大な田んぼのような意味合いがあると思われる。
●行政上の位置づけ:
スコピエ市のなかの自治区のようなもの。市のなかの市。財政の50%は自前。25%は国家からの補助。25%はスコピエ市から。自治をもつようになって、たとえばIDなどは地元でとれるようになった。しかしこの形は2005年1月から始まったばかり。現市長はエルドゥアン・イスドゥニ(29歳)といい2つある小学校のうちの1つの学校長の息子。
●人口:
公式には24000人、地元の調査によれば42000人。民族構成比は①ロマ80%②アルバニア人12%マケドニア人6%ボスニア人2%
●宗教分布:
①イスラム教70%キリスト教20%エホバ証人、ペンテコスタル派など新興宗教10%。
●生活状況:
シュト・オリザリの人口の半分は生活保護を受けている。残りは小売業に従事。そのうち5%が公式に登録して商売しており、納税もしている。マケドニアは税率が高いので、シュト・オリザリは優遇措置が特別にとられている。ロマには法的にきちんとした形で働ける方法を教えている。繊維工場で多くのロマは働いている。
世襲音楽家はいるし、それで生活しているものもいるし、兼業のものもいる。ドイツ、フランス、トルコなど外国のロマによばれて演奏旅行に出かける。人形芝居はない。
●学校:
シュト・オリザリには小学校が2つあり、計4000人以上が学ぶ。その他、幼稚園があり、ネジャド自身が、高校をつくるために青写真を描き、働きかけをしている。施設としては、小さなサッカー場及びバスケットボール場がある。サッカークラブには3部リーグがある。ボクシングには1部リーグがある。
●シュト・オリザリの沿革:
1963年の地震の後にこの街はつくられた。家が地震のためになくなったロマの人びとのために街をつくった。しかし、実態としては、スコピエから遠いところへロマを集めてゲットーのような形になった。当時はメインストリートが作られたくらいで、水道などのインフラは整備されなかった。街の60%は今も未整備。ロマの人びとは適応性が高いので、上記のような悪環境でも生活を営むことができる。学校はマケドニア語で行われている。
社会主義時代には、ロマが一般企業で、職を得ることが非常に困難だったので、外国・西欧で働くロマが増えた。この状態が1999年まで続いた。このように外国で成功した人びとがシュト・オリザリで立派な家を建てている。外国では肉体労働、特に1日2回(8時間×2)労働で、子供たちも比較的早く結婚して自立して働くので、そうした人びとは収入が多く中流の生活が可能になっている。金をためて帰って立派な家を作る。住宅資金にすれば、税控除になる。外国に住みついた人からの仕送りで生活してる人多い。
シュト・オリザリでは繊維産業が盛んである。特に洋服をつくる小さな工場があり、それを生業にしている人が多い。1991年旧ユーゴ崩壊後、最初に制定された憲法では、ロマは民族として認められず。このころ、徴兵されることを恐れて国を離れたロマが多かった。
国情が落ち着いてきた頃に、コソボ危機が起き、7~8000人のロマがシュト・オリザリに流れ込んできて、3~4000人が今も滞在している。
2001年のコソボ紛争ではロマもマケドニア軍に徴兵され従軍した。この紛争後に、ようやく民族として正式に認められた。
1998年、シュト・オリザリは世界で初めて正式にロマ・コミュニティーとして認められた。初代市長はネジェット・ムスタファであった。現在は国会議員。
昨年(2005年)から「ロマの10年」が始まり、EUとヨーロッパ銀行から助成金を得る。
主たる問題点は、①教育②雇用③住居で、教育向上を最優先しているが、深刻な問題の1つに水の問題、水道,排水の未整備問題がある。
現在の生活保護は、月、1700デナルであるが、平均家族構成は5人なので、3日分くらいの食料費にしかならない。(現マケドニアでは、平均月収は10、000デナリ)
憲法上は、平等ということになっているが、納税できないために、健康保険に加入できない。年金がもらえない、というような福利厚生面での差別も生じている。
●文化面:
・10年前に映画館と青少年文化センターがあったが、現在は機能していない。
・文化省からはスポーツと文化全般に対して、年間1、500ユーロの助成金が与えられているが、4月8日のシュト・オリザリ開市記念イベントのためにこの助成金のほとんど使われている。
●今後のシュト・オリザリ:
・2008年までにシュト・オリザリの北半分を、隣接してマケドニア人が多く住んでいるブテル地区に統合,南半分をアルバニア人が多く住んでいるチャイールに統合する案。つまり、シュト・オリザリが2分されて吸収合併される可能性がある。
・ロマの地区を吸収合併する利点は、すでにチャイールのアルバニア人は下から上に進出してきて、ロマの家を良い値段で買うことから、売っているロマは多い。チャイールが合併する予定の地域に監獄がある。
・メインストリートで、アルバニア人が店を経営し、ロマが店員となっているところがかなりある。
・シュト・オリザリの半分がアルバニア人のものになっても、ロマの半分はシュト・オリザリに戻ってくるだろう。なぜなら、アルバニア人は、マケドニア人よりロマを雇用してくれて、保険や年金などきちんと支払いをする。さらにアルバニア人はマケドニア国内最大の少数民族で、これまで少数民族の権利を主張してきており、イスラム教という点でも共通するので、利害関係は一致するところが多い。
一方、マケドニア人にとって、ブテル地区にシュト・オリザリが合併するにあたっての利点は、現在シュト・オリザリにあるスコピエ市の墓地が、合併によってブテル地区に入る。そこにマケドニア正教徒もイスラム教徒も埋葬されるので、収入が増加するためである。


ジプシーの放送局とロマ・シアター

BTR

ゾラン氏へのインタビューから
2006年8月7日。ロマのテレビ局 BTRを訪問。1991年のラジオ放送からはじまったというBTRのテレビ局はいかにもロマ風なものだった。古びた建物の入口に看板らしきものもなく、一見、廃屋かと思うような荒れ方だ。入口には廃車になり、朽ち果てた車の胴体が無造作に置いてある。案内してくれたのはムアレムラムーシュ・ティルコという人物でプロデユーサー兼コメディアンだという。テレビ局といっても日本のメジャーなものを想像すると大違いで、狭く、ごみごみし、雑然とした各部屋、収録のスタジオも2-30坪程度の狭さで一画にステージかあり、そこで音楽番組を収録する。その脇に小さなボードと椅子があり、キャスターなどが座ってニュースなどをレポートするスポットがある。カメラも2台あるが家庭用をちょっと立派にした程度。ディレクターが指示を出す部屋も2-3人が入れば満杯。しかしながらこれで充分なのかも知れない。
スコピエのシュト・オリザリに住むロマをターゲットに、ロマの音楽が好きなマケドニア人もカヴァーして、身近なニュースやロマ音楽を発信していくには。ホテルなどで見た感じでは音楽番組が圧倒的に多い気がした。
テレビ放送は1993年からで、その後、映画祭、音楽祭、子供のためのフェスティバルなどを開催プロデュースしている。ロマ・インフォメーション・エージェンシーという組織をつくり新聞・雑誌の発行もしている。第1回映画祭はチャップリンの息子ユージン・チャップリンをゲストに迎えたという。
次に、経営方針などを聞くため、BTRの社長に会うことになった。彼は局ではなく、シュト・オリザリに隣接する地区のロマ・インフォメーション・ビジネス・センターのほうにいた。周りの雑然、バラック風の建物群の中で、ひときわ目立つ立派なビルだ。
我々を入口まで迎えに出てくれた社長はゾラン・ディモフという活気にあふれた中年の好男子だった。肩書きはBTR社長。その他に、シュト・オリザリのRIBC(Roma Information Business Center)、RIA(Roma Information Agencies)、ペットボトルのリサイクル事業、投資会社(VIL Invest,Prova Vil)などを運営しているやりてのビジネスマンである。さらにジプシーの国際的組織のインターナショナル・ロマ・ユニオンのジェネラル・セクレタリーでもあるという。質問を発すると、彼は答えを話す前にどんどん妄想が飛躍するらしく話しがとんでもない方向に展開する癖がある。黙って聞いていると際限なく時間が経過するので、途中強引に割って入って、話を戻さねばならない。
話のなかに今、企画している三部構成の映画があるという。5000万ユーロ(75億円)の予算。タイトルは「愛と差別」(Love and Discrimination)といい、ロマの歴史をアレキサンダーから3つに分けて作る。世界的な巨匠を起用したいので、現在出資を募っているという。ハリウドの監督スピルバーグやアントニオ・バンデラス、ソフィア・ローレン、ユル・ブリンナー。ジーン・ケリーなどと役者の名がどんどん飛び出し、ついには黒澤明まで出てきた。黒澤は亡くなっているというと、そうか、知らなかったと屈託がない。
また、日本にはジプシーが来なかった(存在しない)のは何故だと思いますかという質問には、待ってましたとばかりに、10世紀ころにインドからジプシーが大規模に拡散したのは事実だが、実は、さらにもっと遥か以前、紀元前アレキサンダー大王がインドから捕虜を連れ帰ったなかにロマもいた。そうした繰り返しの移動があったはず。ジンギス汗がユーラシアを荒らしまわって、モンゴル人が中国に拡散したことも同じ現象だ。ヨーロッパのロマは、スペインが新大陸発見のときにロマを連れて行ったので、アメリカにもいる。中国から東南アジア、日本にも渡ったはずだ。等々。かなり大雑把な把握だが、決定的に間違っているという論拠を提示するのも困難だ。
もし本当にジプシーが日本にきていたら、素晴らしいことで、現在の日本のあり方も少しちがっていたんじゃないかと思う。彼の話を聞いているうちに、ゾランというやりての男の風貌や話し振り、話の展開の独特さなどはまさにジプシーの文化そのものに思えてきた。理屈・理論より感覚・感情を重要視し、歴史的な事実にあまり関心をもたないし、重要視しない。文字をもたない文化のなかの思考回路の独自性。私は彼の話の中身、そのものより彼そのものに大変興味を覚えずにはいられなかった。印象に残る人物だ。
1時間ほどの彼の独演会を聞かされた後、こんどは一見して渋い、誠実そうな中年男が入ってきた。
ティホミル・カランフィロフさんというマケドニア人で8年前からBTRでニュース専門のプロデューサー兼キャスター(マケドニア語専門)をしながらRIBCでリポート作成をしたり、新しいプロジェクトを企画もしている。もともと医学部で学び、医師の資格ももっている。様々な仕事をしてきたが、スコピエの多くの人が働いていた鉄鋼関係の会社のコーディネーターをしたこともある。かつてコソボからのロマの難民を扱ったドキュメンタリー・フィルムをつくったことがあり、その過程でマケドニアとロマの関係を理解できた。
BTRでのニュースキスターとして活動したことで、ロマの人びとにも非ロマの人びとにも広く認知されるようになっている。話を聞いていても苛酷な彼の体験がうかがわれるし、淡々と話すその落ち着きぶり、低いが良く通る声(キャスターとしては魅力になっている)などが真実味を帯びる。その点は、上司のゾランとまったく対照的な肌触りをもつ人物だ。彼を抱えているのが、ゾランの意思だと考えれば、経営者としてのゾランの慧眼がわかる。また、ともすればロマの放送局ということで、色眼鏡で見られかねない国民からの視線に対してカランフィロフさんの存在はメディアの信頼性という観点からみても適材ではないだろうか。
以下が彼の話の要点である。BTRの活動資金は、寄付と自己資金による。「ビジネス・センター」について。RIBCは2005年9月2日に設立。シュト・オリザリのロマがビジネスをするのをサポートするのが主な活動対象。2006年4月から三つのロマのNGOとネットワークを組んでいる。ロマ語でアセチナ(月)ドローム(道)カム(息子)という三つのNGOだ8月15日から機能が開始。このようなネットワークを組むことによって、他の地域の事務所を利用できるメリットがある。同じく8月15日から女性の職業訓練をサポートする。ロマの人びとが登録せずにブラック・マーケットを開くなど、法律に触れる場合に助言や援助をする。中小企業へ銀行貸付などの援助する。こうした活動から、2005年9月からの3ヶ月間だけでも、ロマの会社が130くらい設立された。公式に登録されているのが82社。ビジネスを始めるには、Primary School を卒業していないとできない。などなどであった。


シュテルTV

午後にもう一つのロマによるテレビ局シュテルTVを訪ねた。雑然、ゴミが多いシュト・オリザリ地区の中にありながらやや傾斜をもつ斜面に建つテレビ局は、夏の濃い緑あふれる風景を眺望する恵まれたところに位置していた。
白い瀟洒な4回建の建物の前に、ややはずかしげに若い男が迎えてくれた。ミシュコ・タレスキ- という31歳、髪を短くカットし、スーツを着ている。ここ10年間政治関係のニュースを主に手がけているキャスター。実際、スコピエ滞在中に彼の姿をテレビのニュースの画面で何度も見ている。彼の説明によると、
シュテルTVは1998年設立されロマ語とマケドニア語による放送をしている。番組の70%はロマ語で、30%はマケドニア語。番組の構成は情報番組、ドキュメンタリー(教育的なもの、ロマの人物伝、ローカルな問題、ロマに関するもの全般)。音楽番組(全体の3~4割で夏には長くなる)の半分くらいがロマ音楽で占められ、この中にはバルカン半島、アラブ系のものも含まれている。1日14時間放送している。ニュースはマケドニア語の放送のほうが時間は長い。ロマ語のほうは日常的な話題に関するものが多い。ドキュメント・ニュース・トークショウ・などは首相なども登場するし、レベルは高いと自負している。もう一つの放送局に較べて客観的な内容であるという。この辺はBTRを意識しているのだろう。暗にあちらは娯楽偏重ということか。資金広告収入と寄付金について。
設立者はネジェト・ムスタファという人でシュト・オリザリの知事を務めたり、2006年7月まで国会議員だった。政治活動なので登記上は兄の名で申請。現在はマケドニア女性、メリ・ヤネフスカがオーナー兼マネージャー。2階はネジェトの居住階。1階はテレビ局の編集業務など、地下はスタジオ。規模ばどはBTRと比較してもややこぎれいな程度で、似たようなもの。改めてBTRとの違いをタレスキー氏に質問すると
 1)24時間放送 2)ニュースの質の違い 3)シュト・オリザリにあるので現地に密着した放送ができる 4)スコピエに住むマケドニア人の視聴者も多い 5)番組全体の質がいい などであった。同じ質問をBTRにすればまた違った答えが返ってくることは当然だろう。


●ラジオ放送

マケドニアは世界で一番はやくロマ語の放送を始めた。旧ユーゴスラビアの多文化政策の一環として1989年以前からおこなわれていた。現在は国営放送が週2回30分のロマ語放送をおこなっている。その他、民間の放送局として、スコピエに"Nacional"、クマノヴォに"Zora"、スティプに"Cerenja"がある。


ロマ劇場訪問

ロマの劇場についてはモスクワのものが有名だが、マケドニアにもあるという。しかもシュト・オリザリにあるらしい。半ば、半信半疑でいたのだが、確かに存在していた。シュト・オリザリの賑やかな一画をややはずれた緩やかな斜面にひっそりと質素な劇場が建っていた。木造の小屋の前で迎えてくれたのは、精悍な表情をしたファート・アベディン(41歳)さんとと他2名だった。入口の上のほうににTheater Roma Makedonyaと看板がささやかに貼り付けてある。通りから、やや入ったところにあるので、外部の人は看板に気がつくことはないだろう。
設立は1998年。アベディンを中心に6~7人で活動を開始した。現在は22人名。常時俳優として活動しているのが、12名(男性6名、女性6名残りはスタッフなど)。設立された動機はアベディンが「フラリペ」の公演をシュト・オリザリで見た際に、インスピレーションを受けたからだという。「プラリペ」のラヒム・ブルバンがアドバイザーだった。(「プラリペ」はブルバンが80年代にシュト・オリザリにアマチュアとして始めた劇団。1991年にイタリアの劇団マネージャーに見込まれ,ドイツに拠点を移している。)アルバニア人などの他の少数民族などは劇場をもっているのでロマも欲しかったからだという。
活動目的
ロマの伝統を表現、ロマたちを啓蒙。シュト・オリザリの小学校に2つの演目を見せている。現在のロマ劇場に1クラスずつ招いて、麻薬,覚せい剤、AIDS,売春などの認識を正しくもってもらうために演劇をみせている。
演劇内容
サイコ・フィジカルなスタイルが彼らの特徴。彼らはボディ・ラングエージ、ボディ・エナジーという言い方をしていたが、体から発するエネルギーを重視しているという。
伝統的なロマの話や有名な作家の作品でロマの登場するもの、ロマにひきよせて演じられるもの(例えば「オイディプス王」には王の妻とロマの妻の境涯に共通するものがある、またロマの学者、ライコ・ジュリッチの本から古い伝説に基づいたものを題材にし、シュト・オリザリ在住の古老たちの話をフィールドワーク したものなど。)を選択してきた。言葉はロマ語。観客は70%がロマ、30%はマケドニア人や芝居好き。外国公演の時はその国の言葉を混ぜる。喜劇そのものは演じないが、コメディの要素は取り入れる。ディレクターは状況・フェスティバルによって変わる。公演は基本的にスコピエでマケドニア文化センター、マケドニア演劇センターなど。クマノヴォなどのロマが居住するところを訪ねることもある。
財政的な基盤
 入場料は無料。劇団員は別の仕事に従事しながら生活費を稼いでいる。現在、年間1000ユーロの助成金を文化省からもらっている。フランスやトルコの公演が成功したことによって,文化省が助成金を出すようになった。今年はまだ助成金は出ていない。選挙のせいで、来年度の予算が決まっていないので、次回(2006年9月)はボランティアベースで公演する。2002年8月スェーデン公演では、文化省とソロス財団が費用を折半した。2005年10月のフランス公演サン・ルイ・フェスティバルでは文化省が半分と個々に探したスポンサーが残り半分をもった。年3回の公演が基本。1日公演。来年(2007年)はカナダとスペインに招待されているが、予算がなく,行けるかどうか不明。
その他
舞台音楽の楽器は劇団員が担当(アコーディオン、タラブカ、ヴァイオリンなど)する。
彼らの話を聞いていると、無償の行為ではないが、善意だけでもなく、野心でもなく、功名心でもない肩の力が抜けたピュアーなものが感じられる。


結婚式

●結婚式の音楽

今回の取材中、移動する車の運転手はレフェット・スレイマンさん という59歳の男性だったが、彼にはずっと世話になりっぱなしだった。自宅に寄せてもらい、食事をご馳走になったり、ロマの古老の取材場所にかりたり、トイレを借りたりしたが、一番の恩恵は彼の息子たちがここではかなり有名なミュージシャンだったことである。その息子達がシュト・オリザリでの結婚式の仕事があるというので、これ幸いとばかり取材させてもらうことになった。ただ条件が一つついて、参加者の姿は撮影しないで、バンドの演奏のみにして欲しいという。そのわけは最近セルビアテレビ局がシュト・オリザリを取材した際にロマの人びとの感情を傷つけるような行為は映像表現があったのが大きいという。そのためロマの人びとが外国の取材に敏感になっている。こういう例は過去かなり経験したいるので、この際は要請を受け入れることにした。徐々にこちらの思いを伝えていけば、そのうちにチャンスがくる。
シュト・オリザリの街を歩いていると音楽があちこちから流れてくる。狭い路上の上に親類縁者が総出で踊っている。息子たちのバンド名は「ユジュニ・コヴァチ」といい、「南からのコヴァチ」という意味らしい。
メンバー構成は兄のリザ・スレイマン(シンセサイザー),弟のオルハン・スレイマン(バス・シンセサイザー)いとこのスダハン・ハシート(クラリネット)ラダマン(ベース・ギター)未詳(ドラム)そして、シャダー・サキップというヴォーカル担当の6人組だ。彼はマケドニア、ナンバーワンで世界的に有名なロマの歌姫エスマに18歳まで育てられた。エスマはシュト・オリザリに居住しており、様々な慈善事業をしているのだ。
路上にあふれるように老若男女がゆったりした身振りで、いかにもこの世にはなんの悩みもないといった表情で踊っている。どうしたらこんなに楽天的は表情ができるのだろうと思わせるほど、いい表情に溢れた路上だ。バンドは休みなく次から次へと演奏を続けている。いつ終わるとも知れない演奏と踊りの場。
録音・撮影したのは4曲だったが、とにかく音が大音響なので閉口した。録音はレベルが振り切るほどの音量なので、かなり現場から距離をとらねばならなかったし、撮影は、すぐ脇でスピーカーの振動が体に響くほどの強烈さで耳をつんざくため急性難聴?になった。
1曲目はトルコ音楽とロマ音楽のミックスされ、結婚式では良く使われるダンス曲。歌の内容は"私たちは娘のために踊る。彼女はとても美しい・・"というもので結婚する娘に対して女だけの親族が祝って踊る。歌い方はコソヴォ風、リズムパターンもコソヴォという(エニスの意見)。2曲目は純粋なトルコ音楽で歌詞もトルコ語。トルコの有名な歌手、アドナン・シェンスの持ち歌。クラリネットの音色が低く、憂愁な味わいだ。この曲からクラリネットを持ち替えたのだ。このクラリネットは特注で、低音を強調するため通常のものより1・5倍の長さがある。3曲目はLuludijeというマケドニアのロマミュージックで「私の娘は花のよう」の意で、花嫁の美しさを讃える内容。トパーンスカとバルチの混じった言葉でうたう。4曲目はセルビア風でセルビア、ベオグラード出身のツェツァCecaという有名な歌手の持ち歌で「Dokaz証拠」という曲。これをロマ語に替え歌して歌っている。結婚に反対している花嫁の父にお願いをする内容。各歌と歌の間に、"今度は・・・が踊ります"とアナウンスが入り、その人が輪舞を指導し、バンドに曲をリクエストする、仕組みになっている。


●ロマの結婚式の流れ・式次第

基本的には水曜日から月曜日が伝統的なロマの婚礼。現在は8月の帰省人口が多いときに若干アレンジして行うことも多い。
水曜日
Kuna(クナ)と呼ばれる儀式でインドの伝統。花嫁の手に模様を描く。夕方4時―5時に花婿側が花嫁の家に向って行進。バンドなどもつく。30人程になる。花婿側の女性が花嫁側に贈りものを渡す。
木曜日
ANAM(トルコ語)は「ハマム」のこと。花嫁の入浴の儀式。昔は専門の場所があったが、今は家でする。その間、他の人びとは食事をする。
金曜日
特に名はない。男性は牛を1-3頭購入してさばく。女性は衣装の準備をする程度で、仕事はしない。肉は外に置かれるので、男は寝ずの番をする。
土曜日
朝から女性は化粧と衣装合わせに専念。男は料理。この間に2次会の準備、外灯の電飾の準備。いわゆる結婚式はこの日16-17時に行われるのでミュージシャンを手配。式は同時に両家で行われる。ミュージシャンも両家で。一部・一次会は女性だけ踊る。先導役はもっとも年寄りの女性。篩(ふるい)を手に踊る。7時ころに1部終了。このあと場所を変えて2部・2次会はレストランに行く。2次会の際は花嫁はクナの模様を洗い落とす。2次会も新郎、新婦別々に行う。新婦側の2次会に新郎が10分くらい顔を見せて、また戻る。この時にご祝儀を渡す。親族は1人100ユーロ、知人友人25ユーロが相場。バンドへのリクエストは1曲100デナリ。祝い金のことをバクシーシュ(インド語)と呼ぶ。
日曜日
夕方4時ころ新郎の家族が花嫁を迎えにいく。この時新郎の家族が入れないようにする足止めの演出がある。花嫁はいったん家を出たら振り返らないしきたり。新郎の家の少し前で踊る。この時花嫁は話をしてはいけない。花嫁が新郎の家に入るとき、婿が嫁の頭の上でパンを割る。右足から入り、子供に恵まれるようにという願いを込めて花嫁の頭を東西南北からたたく。そしてパンを食べる。昔は処女確認の儀式があったが今はない。
月曜日
午前10時新郎が一人で新婦の家に行く。そこで卵を食べる。卵の上にのった何物かを食べる。(砂糖・塩・胡椒・などいろいろ)靴を隠されるが、金を払わないと返さない。(エニスの姉の夫は100ユーロ払った)皆にたばこを配って火をつけて廻る。すると花嫁側から贈り物(Tシャツなどが)が渡される。この後はじめて両家の親族がレストランで一緒になる。この際の費用は折半。1週間後の月曜日に花嫁が実家に1泊里帰りし、また戻る。以上が伝統的な行事。


ジプシーのサブ・グループ

●シュト・オリザリのロマのサブ・グループ(支系)
 

こうした例の典型的なものはインドのカースト制度の複雑なあり方を想起させるものがあるが、当然歴史をさかのぼれば、シュト・オリザリのロマのあり様は、カースト体制にその起源はもとめられるだろう。この情報は通訳兼コーディネーター、エニスからのものだが、実際にスコピエに住み、ロマとして日常的に体験していることなので、ほぼ現実を反映していると思う。
1)コヴァチ:
鍛冶屋、金属加工 アレキサンダー大王の武器を作ったという伝説がある。ハリネズミを食する。エスナフィと自称するエリート意識の強いグループがあり、他のグループの反感を買っている。エニスはこのグループに属す。
2)バルチ:
雑役Casual Work。ハリネズミを食べる人のニックネームで蔑称のニュアンスがある。エジャリという呼ばれ方をする。
3)トパーンスカ:
クリーニング
4)ジャンバズィ:
馬の仲買。布地売り。馬車で移動していた。
5)マジャリ:
雑役 スコピエ郊外からシュト・オリザリに移ってきた。マジルマーロともいう。
6)ガウトネ:
村から来たロマ。元は農業をしていたが、今は様々な仕事に従事。
7)ジランリー:
アルバニア、コソボから1964年の大地震以降やってきた。アルバニア語を話す。
8)プリシュテヴァチ:
プリシュティナからの人たち。ロマ語を話そうとしないので,良く思われていない。アルバニア人からも部外者扱いされている。
9)マスリ(マヨキャ):
ロマ語を話さないロマの意味。例えば、マケドニア人とロマ語でなくトルコ語を話すロマとの混血。エニスのフィアンセが属している。
1)から6)のグループはロマ語を話し、互いに意思を疎通できる。シュト・オリザリでマーケットの商売をしている。7)から9)はそれぞれ通じない。グループとは別にトパーンスカヤの一部にアマリという荷役専門のグループがいる。
同じロマといっても実に複雑な出自や経歴があり、それぞれが一筋縄ではいかない歴史を背景にシュト・オリザリのロマ地区に集まっており、それぞれの生活をしている。それぞれの文化の集積があり、伝えられてきた習慣、習俗、風習のなかに生きている。個々の独自さとロマ総体のイメージが混沌としながら併存しているのだ。

大道芸の少年と妹

マケドニアに来て以来、スコピエの市内の繁華街などで大道芸人がいないか、ずっと注目して来たが、まったく,それらしき芸人は見当たらず、わずかに物乞いの老婦に会っただけだった。マケドニアに来る前は、ジプシーが多く居住するスコピエでは、豊富な大道芸の芸人に出会えるのを楽しみにしていた。
私が出しかけていた結論は以下のようなものだった。マケドニアはまだ観光客が押し寄たりするほど、まだ国の落ち着きやゆとりがないようにみえる。市民も日々の生活に目を奪われている。ある種の、ゆとりある人々をターゲットとする大道芸は、ユーゴ時代は存在したのかも知れないが、ユーゴ解体の衝撃から回復していない現在の社会では成り立たない稼業かもしれない。こんな結論がほぼ出ていたのだ。だが、あきらめきれずに、マケドニア滞在の最終日に念のため、中心の広場に行ってみた。そこで遂に少年の大道芸人に出会えたのだった。
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トルコのジプシー(チンゲネ)・バンド

プロの腕前のチンゲネバンド

イスタンブールのクムカピ地区にある海鮮レストラン街はチンゲネバンドにとって大事な仕事場である。その中のオクヤヌスという店でネシェリグループというバンドの収録をした。この地区では流しのミュージシャンにも会ったが、多くはレストランと契約して営業しているようだ。夜になると、最近のトルコの経済的な成長ぶりを物語るように、観光客や家族連れ土地っ子で賑わい、活気に溢れている。チンゲネバンドが稼いでいけるだけの社会的背景がある。
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さらに日を改めてもう一つのチンゲネのバンドの録音。宿泊しているホテルから数軒しか離れていないカフェ(カフヴェ)のマスターがバンドのリーダーである。マケドニアへ行く途中に事前調査に立ち寄った際に、宿泊したホテルのフロントマン、ゼキが気をきかせてたまたま店先でのんびりしていた男に声を掛けたのだった。情報でも聞くのかなと思っていたら、彼がチンゲネのミュージシャンだというのだ。しかも、リーダーだという。本能的にこれは本物だと感じて、帰路にまたくるので、録音させてくれと予約を取ってあったのだ。
朝の9時過ぎにはメンバーがカフェに集合した。バンド名はアヒルカプ・ピレ・メフメット・ロマン・オルケストラス。この日のメンバー構成はリーダーのピポ・メフメット(69歳)・・・テフ(タンバリン)、ダウル(大型の両面太鼓。マケドニアではタパンという。)アラッディン・ダヴルジュオール(48歳)・・・ウットウ(ウード)。メフメット・デミルダーヴァン(17歳)・・・カーヌン。フセイン・カヤジェ(23歳)・・・ケマン(ヴァイオリン)。レジェップ・カヤジェ(18歳)・・・クラリネット。タメル・デミルダーヴァン(42歳)・・・ダルブカ(砂時計型の半面太鼓)の6名編成だった。
5曲演奏してくれたが、見事なもので、プロ級の腕前だった。1曲目・・・ダーレ。8分の9リズムを使った演奏。チンゲネのうた。2曲目・・・ユルドゥズラルン・アルトゥンダ。"星の大地の意味"。3曲目・・・ユスキュダラ。4曲目・・・イッレデ・ロマン・オルスン。"再びロマン(ジプシー)になる"の意味。5曲目・・・カディフェダン・ケセスィ。"ポケットにベルベット"の意味。
彼らは1曲録音するたびに、必ずプレイバックしてレシーバーを耳に当て、自分たちの演奏に納得しないとやり直すこともあるほど、音楽に対しては真摯だった。細部にこだわらず、全体でのりがよく、うねったようなリズム感で疾走する演奏だった。


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